第3章 俺は俺にしか従わない_その5
〇
同じ頃、
「これ…………」
見ているのは、
「……頭、いたい……」
「
「おい、あんま無理すんな。キツけりゃ休んでろ!」
ハイドと呼ばれる男が
「────『とり』」
写真を指差し、
「……そのひと知ってる。鳥って、よんでた。あたしをまもってくれた」
同じようなことを
気になるのは、守ってくれた、というところだった。
ミソギは清潔なおしぼりで
「じゃあ、今までそいつがお前を保護してたのか? ずっと?」
「うん……いっしょだった。色んなところにいったよ」
何の後ろ盾も持たない幽界孤児が、この十年どうやって生き延びたのかやっとわかった。
けれど、思い出せるのはそこまでのようだ。ただでさえ記憶が曖昧な上に、十年前となるとまだ幼児だ。すぐ思い出せというのも酷な話だろう。
「ごめんね、みそぎ」
「いや、気にすんな。それがわかっただけでもめっけもんだ、ありがとな」
頭を
あ、と思った。妹を相手にする時の癖だ。一言
「……このままでいい」
「お、おう。……どんな具合だ?」
「かたい」
そりゃそうだろう。昔みたいに気楽に人を
「──ハイドにとって
それに関しては無理な話でもない。物資密輸に関して組織の根回しは済んでいるだろうし、防衛戦力も過剰なくらいだった。ミソギとアッシュがイレギュラーなのであって、わざわざ狙おうとする馬鹿は普通いない。とはいえ、自分の名前すら秘匿するほど周到な
ミソギは椅子の上であぐらをかき、しばし考え込む。
「お前らはどうやってここまで来た?」
「え、私たちですか? アナテマの小型ステルス機に乗ってですけど……」
「うわなんだそれ。ずいぶん金持ってんだなアナテマってのは」
「……まあ、多分。それが何か?」
「このご時世、
海、空、地下。
ステルス機なんてものを用意できるような
必然、大半は海路を選ぶ。海の見張りは陸よりは甘い。そのうえで他の密入国者と分けるなら、厳重に
「……なるほど。慎重になるからこそ、ああいう手段を取ったと……」
「多分だけどな」
と、ソファに横たわっていた
「おいしそうなにおいがする」
頃合いだろう。今日は食事を済ませて休もう。
メニューはマスターの手料理である。ハムとピーマンとタマネギという王道の具に、半熟とろとろの目玉焼きまで乗ったナポリタンと、家庭菜園で育てた自家製野菜に手作りシーザードレッシングをかけたサラダ。修羅場が続く生活で、食事は毎日の楽しみだった。
「ん、さすが。相変わらずうめぇよマスター」
「本当……。私、ナポリタンって初めてだけど、こんなにおいしかったんですね」
「おかわり!」
「ははは。そんなに上等なものでもございませんよ。この十年で仕込んだ余技ですので」
「おかわり!」
「えぇ、喜んで。ご満足いただけたなら幸いです」
「……いつもすまねぇな。仕事の手伝いだけじゃなく、飯の世話までさせちまって」
「なんの。ミソギ様をお助けすることこそ、
「おかわり!」
「いやめちゃくちゃ食うなお前! どこにそんな入るんだよ!?」
結局更に二杯もおかわりして、
食後のコーヒーを飲みながら、フィリスはふとここにいない男の話題を出した。
「……アッシュ、いませんね。晩ご飯食べないんでしょうか」
「さあなぁ。またどっかで見回り中なんじゃねえの」
「そうなんでしょうか。……私、なんだか避けられてるような……」
言われてみればそんな気もする。アッシュはフィリスに積極的に近付こうとせず、しかし常に目の届く範囲にはいて、それでもフィリスから話しかけようとすれば
「
「なに言ってんだ、アレがそんなヤワなタマかよ」
とはいうものの、フィリスはかなり気にしている。
別にアッシュはどうでもいいが、そういう空気は、なんか苦手だった。
気づかわしげなマスターの視線に肩を
屋上。室外機と家庭菜園とニワトリ小屋の並ぶこの場所にアッシュはいた。
双眼鏡を持ち、屋上の角から周囲を見張っているらしい。ニワトリがコケコケ鳴く土臭い屋上に美形神父はいっそ笑えるほどミスマッチだった。
靴底が屋上の床を踏んだ途端、アッシュは電撃的に反応した。双眼鏡から目を離さずに右手だけ素早く動かし、
「……お前、誰かが後ろにいたら問答無用で銃向けんのか? ゴルゴか?」
「
ミソギは両手を挙げ、立ち止まる。こちらはこちらでいつでも
「姉ちゃんがお前のこと気にしてたぞ。避けられてんじゃねぇかって」
アッシュの肩が小さく跳ねる。
「……君に関係があるのか?」
「ねえよ。ねえけどまあ、放っておくのもな」
「例の自分ルールか。年下の女の子は放っておかない、人間は殺さない……お次は? 寝る前には必ずホットミルクを一杯飲むとか?」
「うるせえな! とにかく伝えたからな、あとは当人同士でやってろ」
「待て」
とっとと退散しようとしたところ、意外なことに呼び止められた。もちろん銃は向けたままだ。さっきはこれ以上いれば撃つと言われたが、この場合どういう判定になるのか。
「……姉さんは、他になんて?」
アッシュの表情は
「……はっは~ん? 表向き素っ気なくしてても、内心気になってしょうがねぇと。なんだオイ意外とかわいいとこあんじゃねぇかよ、弟クンよ──」
ぶっ放された銃弾が右耳を
報告を最後まで聞き、アッシュはつまらなそうに鼻を鳴らした。
「君は馬鹿か?」
「あぁ? なんだとこのやろ」
「──
一瞬考え込む。言い方はともかく一理はある。話を聞くにハイドは相当に用心深い性格のようだから、肝心の運搬に立ち会わないのはいかにもおかしい。
考えられる理由としては、
「……ちょうどその時、他にやることがあった……とかか」
「おそらく相手は、物事に徹底して優先順位を決めるタイプだ。今の状況も想定内かもしれない。ブギーマンの襲撃以来、動きに
こいついちいち一言多いな。死神って呼ぶなと何度も言っているのに。
──だが。仮にハイドが、アッシュの言う通りの男だとしたら。
ぞっとしない想像だった。そんなの、相手に何もかも把握されている気がする。
アッシュが肩越しに振り返る。
「僕は姉さんを守り、任務を遂行する。ここにいるのは利害の一致だ。馬鹿を
「けっ、こっちの
どかどか音を立て、ミソギが中に戻っていった。アッシュは視線を双眼鏡に戻し、
「──あ、危なかった……」
ミソギが階段を下りていく音を、フィリスはどぎまぎしながら聞いている。
実は近くに隠れていた。
気になって様子を見に来たのだが、今まさに二人が話しているのを見て反射的にそうしてしまった。会話は断片的にしか聞き取れなかったし、隠れてどうするかも考えていなかった。
「そこにいるんだろ、姉さん」
「ほぁい!!?」
しかも完全にバレていた。フィリスは観念して、おずおずニワトリ小屋の陰から出る。
「あ……あの。盗み聞きとかするつもりじゃ……」
「いいよ、気にしてない」
そんなことを言われても気にする。会話の内容そのものより、アッシュの態度について。
フィリスはこの時、アナテマから伝えられた模範的「姉」としての態度を忘れていた。個人として、何か
「アッシュ……。私に何か、気に入らないところがありましたか?」
「姉さんに? まさか。姉さんはいつも正しいじゃないか」
また「正しい」だ。そう言いながら、しかしアッシュはこちらを見ようともしない。
「……そうですか?」
「そうとも」
本当はここまで踏み込む必要は無い。「こちらが正しいと認識させる」という要件を満たしている限り、任務に支障はないだろう。けれど、それで良しとするのがためらわれた。
フィリスはアッシュの隣に座り込む。彼の体が少し
「それじゃあ、お邪魔じゃなければ、少し雑談をしませんか」
「邪魔だなんて。けど、こんなところにいたら風邪を引くよ」
「大丈夫です。なんでも、思いついたことがあれば言ってください。一人でそうしているよりは退屈しないと思いますから」
アッシュはしばらく黙っていた。やがて双眼鏡から目を外し、フィリスを盗み見る。
「……怒ってないの?」
「へっ?」
「姉さん、僕のことを怒ってると思って」
「! い、いえそんな、怒ってなんか! むしろ私の方こそ、謝らなきゃって……!」
わたわたするフィリスに、アッシュは心底安心したように破顔した。
「──なぁんだ」
彼の中にあった小さなわだかまりが、たちどころに晴れていく。
フィリスは安心した。そんなことだったんだ、とも思った。
一方で、心の奥底にまだ氷塊しない疑問があることも自覚した。
自分がこの任務に選ばれたのは、
けれど今目の前で笑う年上の弟は、「姉」に嫌われることを恐れ、誤解が解けて
与えられた役割に徹せないのは、自分が未熟者だからだろうか。
笑うアッシュの首元で、銀のペンダントが小さく揺れた。
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