第4章 ろくばんめのつばさ_その1
骨の満月から、一週間ほどが経過した。
ミソギは
「ひっでぇなこりゃ」
ここは「
過去形だ。今や店内は台風に見舞われたように荒れ、生きた
このところ
下手人はおそらく「ハイド」だろうというのがミソギ側の見解だった。
あてもなくホール内を歩き回り、ミソギはふと窓枠にこびりついたものを見つける。胸騒ぎがしてそこらの破れたテーブルクロスで拭い、まじまじと検分した。
「──こいつは……」
ミソギが別のところを見ている最中、アッシュは破壊の跡そのものに注目した。
弾痕はどうでもいい。気になるものは、壁や天井、倒れたテーブル、ホールの角、ぶち抜かれた壁の向こうの
切り傷だ。
無数のナイフで手当たり次第に斬りつけたような跡。十人や二十人にできる仕事では到底ない。あるいは獣の爪で
「死神、写真を撮れ。僕が言う場所を全部だ」
「あぁ? てめこの何指図してんだコラ」
「いいから早くしろ。こういう戦い方に、僕は見覚えがある」
ミソギからすれば、まったく見当もつかない傷の付き方だ。冗談や皮肉を言っているようには見えない。ミソギは渋々スマホを取り出し、それから、と汚れたテーブルクロスを示した。
灰だった。ただの灰ではない。ミソギ自身、何度も見てきた
「オレもわかったことがある。……ハイドってのは、
〇
「総隊長に、ですか?」
「うん。この時間なら真夜中よりクリアな通信ができると思う。
フィリスは情報担当補佐官に支給される特殊仕様のラップトップPCを開き、すぐに通信を試みた。
秘匿回線と暗号化データを幾重にも
いくらもしないうちに画面が切り替わり、四十半ばほどの銀髪の壮年男性の顔が映る。
こいつが上司か──とミソギはひそかに感心する。引き締まった顔と、鋭い眼光。くぐってきた修羅場が十や二十ではきかない歴戦の気配を感じさせる。
『異常事態か? 手短に報告しろ』
「ターゲットBについての情報を
言って、ミソギに撮らせた戦場の写真を見せる。総隊長はまじまじと画像を見つめ、
『……どこで起こった戦いだ?』
「
すかさずPCがデータを受け取る。中身は同じく画像で、イギリスのどこかの街、
すべてに、
「どうやら、間違いないみたいだね」
『ああ。
アナテマは「その男」をそう呼んでいる。
この十年、彼は世界中を転々としていた。アナテマの活動圏であるヨーロッパの各都市にも出没し、多くの爪痕を残した。人間・
彼を一言で表すならば、「神出鬼没」。アナテマの組織力をもってしてその姿を捉えることすら
『最悪の犯罪
「わかってる。念のためそっちにある
またPCがデータを受け取る。それから細かい報告を幾つか行い、通信が終わる。
彼の目的を推測することは難しい。ただとにかく、行く先々で誰かを殺さずにはおかないようだった。PCを閉じたフィリスが、宙にぽつりと独り言を浮かばせた。
「ハイドは、何が目的なのでしょうか……」
「さあな。とにかく今は
と、
何か焼いていたらしい。マスターを見ると、彼は小さくウインクして奥を指し示した。
「できたっ」
エプロン姿の
「……それ、ケーキか? 作ったのか?」
「うん。教えてもらった!」
ウェイトレスは一仕事終えたというように額の汗をぬぐっている。彼女の指導の
「ほ~、お前がねぇ。ちょっと一口食わせてみてくれよ」
最初からそのつもりだったようで、
一口含むと、タレの味がした。
「…………ウナギ入ってね?」
「好きってきいたから」
「だからってケーキに突っ込むなよ! 味が衝突事故起こしてんじゃねーか!」
ふむふむなるほど。
ウェイトレスがくれた水で一息つき、チーズケーキの断面にぶつ切りのニホンウナギという世にも珍妙な光景に改めてヒエッとなった。チョコとかクリームじゃなくてまだしも良かったと思おう、せめて。
「……そういや
「ろくろって、みそぎの妹?」
「ああ。ガキの頃は得体の知れねえ創作クッキーを延々
そういえば
「むむむ」
「って、なんだよ、変な顔しやがって……」
「ろくろは、あたしより上手だったの?」
妙に突っ込んで聞いてくる。ミソギは若干のけぞりながら、
「……いや、ぶっちゃけあんま大差ねえぞ。今は知らんけど」
「わかった。あたし、がんばる」
言うが早いか、
「
ウェイトレスにそう耳打ちされる。フィリスは生あたたかい目でこちらを見るばかりで、アッシュに至っては一切構わず銃の分解整備などしている。カウンターでやるな。
「ミソギ様はなんだかんだ好かれやすい方ですから。大変ですね、『お兄ちゃん』♪」
くすくす笑うウェイトレス。
(……ま、ほっとけねぇわな)
なんだかんだで、もう半月近く一緒にいる。
熱いコーヒーを人数分置き、マスターが微笑する。
「にぎやかになりましたなぁ」
「なんだよマスター、ご機嫌だな」
「そうでしょうとも。ミソギ様のことも、わたくし案じておりましたので。
「オレのことが?」
「はい。わたくしどもはこうして銃後で活動をお支えする一方、現場では常にミソギ様一人。一時的とはいえ、お仲間とご一緒なことがわたくしはとても
すかさずアッシュが口を挟む。
「僕は仲間じゃない」
「たりめーだこんな殺人神父と組んでて
苦笑するマスター。今も聖職者への畏れは
と、スマホが鳴った。「ケーキは後で食う」と言い訳して、ミソギは屋上へ出た。ちょうど外の空気も吸いたかったところだ。
『調子はどうじゃミソギ。何かわかったか?』
「どうもこうも面倒続きだよ」
ミソギは、ハイドについて現状で知る限りの情報をすべて伝えた。
『──あった。甲の四十四番。空白、とある』
「空白ぅ?」
『何も書かれておらんのだ。じゃが顔と名前の無い男となると、こやつしかおらぬ。わしは便宜的に「名無しの四十四番」と呼んでおったがの』
あとはなんじゃったかな、と
『もう一つ気になることがある。そやつ、
「ああ。ありゃ、オレが魂を抜いた時に起こるのと同じだ」
『実は、死者の数とこっちに来た魂の勘定が合わんことが何度かあってな。おぬしが抜いた魂は地獄に送られてくるが、そうではない、行方不明の魂があるようなのじゃ』
「なんだって? じゃあどこに送ってるってんだよ」
『わからん。じゃが……ハイドは、自らが抜き取った魂に何かをしているのかもしれん。それが何かわからんのが問題じゃ』
「どっちにせよ絶対ろくなことじゃねえなそれ。……ああそうだ、もう一つ意見が聞きてぇ」
『なんじゃ』
「ハイドの
ふうむ、と
「先に俺の推測を言っとくと、粛清だと思う。あいつらは一枚岩じゃねぇ。でかい組織には自分が頭になってやろうって連中もいるもんだから、そいつらを潰してるのかもなってさ」
『じゃがそれでは組織の全体規模が縮小しすぎてしまう。滅ぼされた組織はどこもかなりの規模なのじゃろう? だいいち時間もかかるし、どうも
一理も二理もある。ヤードセールとは絶妙な利害関係のバランスのもとに成立する強大なシンジケートだ。以前
だとすればその上でなお粛清を選んだ合理的理由がある、と考えるのが自然だ。
「他を切り捨ててでも、ヤードセールがデカくなるアテがこの先にある……とかか」
『それが
「ありえるけど、そんだけのために他を捨てるのも思い切りすぎだな。もっと先に何かあるはずだ。少なくとも、当のハイドが皆殺しにしてんだから、間違いなく主導は
『ふむ。引き換えにするだけの得が見込めるわけか。悪巧みだけは立派な連中よな』
「まったくだ……あ、そうだ」
大事なことを聞くのを忘れていた。
「ハイドの賞金額は幾らになる?」
『む、やはり聞くか。相変わらず細かい男よ』
「大事な話だろ。で? いくらになるんだ?」
『まだわからん』
ずっこけるところだった。
「おいおい頼むぜ! そこ大事だろ!?」
『ええい慌てるでない。これまでの所業と目的の全容が
狙っていた「大物」は間違いなくハイドだ。そいつを倒せば見合った賞金額が支払われるに違いない。くれぐれも頼むと言い含めた上で通話を切り、ミソギは屋上の扉を振り返る。
アッシュがいた。
「……あんだよ、いつからいやがった」
「『どうもこうも面倒続きだよ』」
ほぼ最初からである。どうしてわざわざ待ってるんだこいつは。げんなりするミソギを完全スルーして、アッシュは屋上の端に立った。手には双眼鏡。ここから偵察をするのが、手持無沙汰な時の彼の日課となっているようだ。
「見張り塔も様になってきたじゃねぇか。なんだかんだうちの生活がお気に召したか?」
「必要だからそうしているだけだ。
あくまでもその姿勢は崩さないらしい。それならそれで結構なことだが、今後仕事をする上でひとつ確認しておくべきことがある。
「それとな、ハイドの魂はオレが
「そんな
「こちとら死活問題なんだよ。借金返して、こんなとこさっさとおさらばしてやる」
「外の妹と会うために?」
言葉に詰まる。憎まれ口のひとつでも
返せるのは、悪あがきめいた強がりだけだった。
「けっ……笑いたきゃ笑えよ」
「笑わない」
意外なことに、即答だった。
「家族を大事に思うのは、当然のことだ」
毒気を抜かれたのはこっちだ。お、おう──と
──お前の「姉さん」は、本当はどんな人なんだ?
言わなかった。アッシュがミソギを笑わなかったように。
結局、何も言わず屋内に戻る。今夜はちょうど半月だった。白と赤の
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