第1章 次は君を喰らう_その2
〇
そんな街の
ここは何もかもが狂っている。
イギリスにこんな街は無かった。当たり前のような顔で歩く人々はもれなく
空には白金色の月と、
「……け、
本当ならさっさと目的を果たして退散したいのだが、同行していた『
「あ、ちょっとちょっとそこのおねーさん!」
と、いかにもチンピラ然とした
「……何です?」
「いや実はね。そこの路地裏でサイフ落としちゃってさぁ。一緒に探してくれないかなぁ」
吐き出す息に不穏な気配を感じて、フィリスは顔を
──麻薬中毒者。
「他を当たりなさい」
「そんなこと言わないでさぁ助けてくれよぉ! 金がねーんだよぉ、な? な? な?」
「ちょ……放しなさい! 人を呼びますよ!?」
「ここに人なんていねーよ」
「あんた人間? あのね、君みたいなのパーツで売ったらいい金になるんだぁ。いやほんと助かったよ。レンタル屋のクソオヤジがクスリ欲しけりゃ金よこせってうるさくてさぁ」
「……!」
路地の向こうには同じような連中が数人いて、獲物が来るのを今か今かを待っていた。
「僕の姉さんに何か用かな」
いつの間にか、背後にアッシュ。
彼はどの幽霊よりも気配無くそこにいた。
満面の笑みだった。中性的な美貌と相まって、見る者全ての警戒心を解きほぐすようだ。どこで何をしていたのか聞く暇もなく、フィリスはアッシュの手ですぐ後ろに下がらされた。
「あ? アンタも人間? なんだイイじゃん、酒飲む方? 元気な肝臓は高く売れるんだよ」
アッシュはローブの
「こ、ここではいけません! 無用な騒ぎを起こすわけには……!」
「大丈夫だよ姉さん。僕が話を付けておくから」
ここで「
「あ。──姉さん、下がって」
チンピラは今更
「なぁおい待てよぉ、恵まれない
いきなり
横から突っ込んできた黒い車が、二人の前で止まる。
チンピラは数メートル先を棒のようにぐるんぐるん縦回転してそのまま頭から墜落した。卵の割れるみたいな音までして、どっこい生きていた。
「──てっ、テンメ誰だオイ!? 何してくれてんのォ!?」
がばっと立ち上がるチンピラの、頭の割れ目から中身が出ている。車のウインドウから半分白髪の
「お? なんだ、ちゃんと脳みそ入ってんじゃねぇか」
「入っとるわ!! 毎日楽しいこと考えとるわ!!」
「んじゃ別の楽しいこと探せよ。そんくらい医者行きゃツギハギしてくれんだろ」
この街に死は存在しない。
「……それとも
得体の知れない圧に、チンピラが息を
フィリスには何が何やらわからないが、それは彼らが忘れた死への恐怖そのものだった。
「……クソぉ! 覚えてやがれ!!」
「おー。今度は優しく
去り際まで典型的な
「ええと……あなたは?」
「ただの通りすがりだよ。お前らこそ何しに来てんだ? 人間のパーツは移植用やら食用やらで人気が高いんだ、何のつもりか知らねぇが──」
運転手がアッシュと目を合わせ、一瞬、妙な顔をした。
「──お前、本当に人間か?」
「嫌だなぁ。他の何に見えるのかな」
人間離れした美貌で笑顔を作り、目元に底知れぬ深みを
運転手はまた何か言いかけたが、そこで向こうの路地に気付く。チンピラ連中はまだ諦めていないようで、
このままでは本格的に大騒ぎになってしまう。
「おい、乗れ! 適当なとこまで連れてってやる。仕事のついでにな!」
言うが早いかドアを開ける彼に、アッシュの表情がすっと冷える。
「乗っちゃいけないよ、姉さん。彼も
路地から
「いえ、乗ります。ここで騒ぎを起こすわけにはいきません!」
「……本気かい?」
「ほ、本気です。アッシュ、えと、姉さんの言うことを聞いて……!」
アッシュの肩が跳ねる。言いつけを吟味するまでもなく、彼は薄く笑った。
「────うん。わかった。姉さんはいつも正しいからね」
その時アッシュは、首元から提げた小さなネックレスに触れていた。独房にいた頃から身に着けていたものだ。ロザリオでもドッグタグでもなく、なんでもない小さな銀の破片だった。
二人とも乗り込み、ドアが閉まる。運転手がアクセルを踏み、車が急加速した。
思わず妙なことに首を突っ込んでしまった。悪い癖だと、ミソギはため息をつく。
奇妙な姉弟だった。外国人のようだが、スター・ウォーズのジェダイみたいなローブに身を包んでおり、一見してどういう二人組なのか判断がつかない。
「お前ら、姉弟なのか? そうは見えねぇけどな」
「それは……家庭の事情、といいますか」
そもそも後部座席の少女は姉には見えない。
助手席の弟は、絵に描いたようなゴールデンブロンドに、深いサファイヤブルーの瞳。寒気がするほどの美男だった。一から十まで作り物と言われても信じるが、どことなく憂いや皮肉を帯びた表情はまさか樹脂製ではあるまい。一見して人かどうか迷ったのは、下手をすれば死人よりも
「どんな事情にしても、
「あ、あなたには関係ありませんっ。そんなこと言うなら乗せなければ良かったでしょう!」
かわいくないことを。しかし言う通りではある。わざわざ車に乗せてまで逃がしてやる義理など一つもないわけで、だからそれが、悪い癖なのだった。
「年下の女はなんか、ほっとけねぇんだよ」
「年下って……あなただって、私とそう変わらないように見えますが」
「ばーか、
ミソギは享年十八歳。幽界化が起こったのはまだ学生の頃だ。
「オレにも妹がいてな。だからまぁ、条件反射みてぇなもんだ」
妹という単語に、弟の方が初めて反応を見せた。これまで黙って外を見ていた彼は、窓の反射越しにはっきりこちらに焦点を結ぶ。へぇ、という顔。
「──で? 結局お前らこんなとこで何してんだよ。本当に観光ってわけでもねえだろ」
「仕事さ」弟が答えた。「ひらたく言えば、ゴミ掃除をね。君は?」
「……まあ、取り立て屋ってとこだな」
どちらも本当のことを言っているとは思っていない。後ろの姉はともかく、弟はどうにも嫌な感じがする。具体的にどこがどうというのでもない、
ぐぅ。
いきなり妙な音。見ると後ろで、姉が腹を押さえて赤面している。
「……なに、腹減ってんの?」
「ち、違います! 変な気を回さないで!」
横目で弟と目を見合わせる。わかっているだろうね? ──と言いたげなこいつに従うのも
「…………はしたない…………」
「何ヘコんでんだよ。腹くらい誰でも減るわ」
死んでいようと腹が減るのは、実際に死んで初めてわかったことだ。殊にミソギの体は何かと燃費が悪い。いつものように
姉はしばし容器を見つめたかと思えば、両手を合わせて何やらむにゃむにゃ
ミソギは「うげ」と
「やめとけやめとけ。んなもん誰も聞いちゃいねぇよ」
「むっ……どうしてそんなことが言えるんですか」
「神様なんてのがいたら世の中こんなことになってねぇだろ。他はどうだか知らねぇが、少なくともこの街じゃお祈りなんざ意味ないぜ」
「そこまでだ」横から弟の冷たい声。「君が神をどう思っているかは知らないが、姉さんのやることに文句を挟むのは許さない」
はいはい悪かったよ──と両手を挙げるミソギ。姉はしばしミソギを
「はむっ。……はふ、ほふ。ん……。……!!」
スプーンが進む進む。どうやらお気に召したらしい。
その
このご時世、天然物のニホンウナギなどとうに絶滅して久しい。ところが幽界化を境に
さて──そろそろ夜も本番。
戻ってきた死者の生前の時代はバラバラだ。これまでミソギが見た中で一番古いのは平安時代の自称
「……っと、そろそろ時間だ。オレは行くから降りろ」
「はむ、ふはふは……ふぁ!? そ、そうだ、お金は?」
「あ? いいよ別にケチくせえ。ゴミだけ自分でどっかに捨てとけ」
「か、借りを作るのは嫌いです! 待っていなさい、今倍にして返して……!」
「姉さん、僕らは現金を持ってきてないよ」
この十年でキャッシュレス化が進み、わざわざ現金を使っているのは日本、それも
「これを。迷惑料込みだ。換金すれば食事代にはなる」
指で
ミソギは降りていく二人を見送り、なんとなく感じていた嫌な予感を
(……あいつら、聖職者じゃねぇだろうな)
小さく頭を振った。食前の祈りなんてあっちの文化圏なら当たり前だろう。どうせもう関わることもないだろうし、ミソギは仕事のことだけを考えることにした。
片手でハンドルを握り、弟に渡されたものが何なのか確かめてミソギは総毛立った。
「うげっ!?」
ばっちいものみたいに窓から投げ捨てる。とんでもないものを寄越してきやがる。絶対わざとだ。こんな腕じゃなければ、
ネオンを反射し、路上で跳ねるそれは、純銀製のコインだった。
結局、見知らぬ
「ごめんよ姉さん。僕が離れちゃったばっかりに」
「あ──そうだ、アッシュ、あなた今まで一体どこへ行っていたんですか!?」
「調べもの。色々と面白いことがわかったんだ」
アッシュはにこやかにローブをはだけた。
下に着こんでいるのは漆黒の
「……!!」
「商売人があちこちにいてね。ほとんど外れだったけど、根気よく調べてるうちに詳しい
この耳は商売人たちのものということだろう。聞き込みの過程で千切り取ったものを、まるでトロフィーのように抱えていたのだ。今までずっと。
「褒めてくれるかい、姉さん?」
「え、ええ。……よくやってくれました。姉さんは
「ありがとう。あなたが
アッシュの雰囲気が、笑顔をそのままに一瞬で冷え込む。
暗い穴の中に落ちたかのような急変にフィリスは
「
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