第1章 次は君を喰らう_その2


    〇


 そんな街のただなかで、フィリスはいきなり途方に暮れていた。

 ここは何もかもが狂っている。

 イギリスにこんな街は無かった。当たり前のような顔で歩く人々はもれなくもうじやで、宙を幽霊が飛び交い、かいわい全体に底冷えするような霊気が漂っている。

 空には白金色の月と、らんした傷のようにあかい月が並んで輝いていた。

「……け、けがらわしい……っ」

 本当ならさっさと目的を果たして退散したいのだが、同行していた『人喰い鴉レイヴン』がどこかへ行ってしまった以上、簡単にはいかない。逃げたわけではないと思う。首輪から発せられる位置情報によると、彼は恐ろしいペースでないのあちこちを移動し続けている。

「あ、ちょっとちょっとそこのおねーさん!」

 と、いかにもチンピラ然としたもうじやが駆け寄ってくる。無視しようかと思ったが、根がりちなフィリスは考える前に応じてしまっていた。

「……何です?」

「いや実はね。そこの路地裏でサイフ落としちゃってさぁ。一緒に探してくれないかなぁ」

 吐き出す息に不穏な気配を感じて、フィリスは顔をしかめた。

 ──麻薬中毒者。

 らんくいからむ、ほのかな金のりんこう。幽体麻薬を「吸っている」証拠だ。よく見れば目の焦点も合っておらず、まるで起きながら夢でも見ているようにハイだ。

「他を当たりなさい」

「そんなこと言わないでさぁ助けてくれよぉ! 金がねーんだよぉ、な? な? な?」

「ちょ……放しなさい! 人を呼びますよ!?」

「ここに人なんていねーよ」

 もうじやは裂けるように笑った。腕をつかむ手の力が強い。

「あんた人間? あのね、君みたいなのパーツで売ったらいい金になるんだぁ。いやほんと助かったよ。レンタル屋のクソオヤジがクスリ欲しけりゃ金よこせってうるさくてさぁ」

「……!」

 路地の向こうには同じような連中が数人いて、獲物が来るのを今か今かを待っていた。

「僕の姉さんに何か用かな」

 いつの間にか、背後にアッシュ。

 彼はどの幽霊よりも気配無くそこにいた。

 満面の笑みだった。中性的な美貌と相まって、見る者全ての警戒心を解きほぐすようだ。どこで何をしていたのか聞く暇もなく、フィリスはアッシュの手ですぐ後ろに下がらされた。

「あ? アンタも人間? なんだイイじゃん、酒飲む方? 元気な肝臓は高く売れるんだよ」

 アッシュはローブのふところに手を忍ばせた。対するチンピラはさっぱり気付かず、路地の仲間にハンドサインを送って、二人分のパーツ代金の分配とクスリを買い足す算段をつけている。

「こ、ここではいけません! 無用な騒ぎを起こすわけには……!」

「大丈夫だよ姉さん。僕が話を付けておくから」

 ここで「る」気だ。今騒ぎを起こすのはまずい。なんとか止めようとしたフィリスだったが、不意にアッシュが横をいちべつして、フィリスを引き下がらせる。

「あ。──姉さん、下がって」

 チンピラは今更づいたとでも思ったか、れしく腕をつかもうとして、

「なぁおい待てよぉ、恵まれないもうじやに救いの手をぐぼげーッ!?」

 いきなりかれて吹っ飛んだ。

 横から突っ込んできた黒い車が、二人の前で止まる。

 チンピラは数メートル先を棒のようにぐるんぐるん縦回転してそのまま頭から墜落した。卵の割れるみたいな音までして、どっこい生きていた。

「──てっ、テンメ誰だオイ!? 何してくれてんのォ!?」

 がばっと立ち上がるチンピラの、頭の割れ目から中身が出ている。車のウインドウから半分白髪のもうじやが顔を出し、意外そうに眉を上げた。

「お? なんだ、ちゃんと脳みそ入ってんじゃねぇか」

「入っとるわ!! 毎日楽しいこと考えとるわ!!」

「んじゃ別の楽しいこと探せよ。そんくらい医者行きゃツギハギしてくれんだろ」

 この街に死は存在しない。

 もうじやどもはどんな傷を負おうとも基本的に「死ぬ」ことは無く、だからしばしば緊張感というものが無い。それを見越してか、運転手が片腕を垂らした。鋼鉄の異様な手だった。

「……それとも冥途おうちに帰るか? リストにゃ載ってねぇが、お望みなら手伝うぜ」

 得体の知れない圧に、チンピラが息をんだ。

 フィリスには何が何やらわからないが、それは彼らが忘れた死への恐怖そのものだった。

「……クソぉ! 覚えてやがれ!!」

「おー。今度は優しくいてやるよ」

 去り際まで典型的なやつだ。逃げるチンピラに、フィリスはひとまず胸をでおろす。

「ええと……あなたは?」

「ただの通りすがりだよ。お前らこそ何しに来てんだ? 人間のパーツは移植用やら食用やらで人気が高いんだ、何のつもりか知らねぇが──」

 運転手がアッシュと目を合わせ、一瞬、妙な顔をした。

「──お前、本当に人間か?」

「嫌だなぁ。他の何に見えるのかな」

 人間離れした美貌で笑顔を作り、目元に底知れぬ深みをたたえて、アッシュは首をかしげた。

 運転手はまた何か言いかけたが、そこで向こうの路地に気付く。チンピラ連中はまだ諦めていないようで、ふくしゆうのつもりか、物陰に隠していた武器をがちゃがちゃ引っ張り出していた。

 このままでは本格的に大騒ぎになってしまう。しゆんじゆんするフィリスに運転手が叫んだ。

「おい、乗れ! 適当なとこまで連れてってやる。仕事のついでにな!」

 言うが早いかドアを開ける彼に、アッシュの表情がすっと冷える。

「乗っちゃいけないよ、姉さん。彼ももうじやだ。何をされるかわからない」

 路地からもうじやが駆け出る。フィリスは必死に考えを巡らせ、えいっと気合を入れ直した。

「いえ、乗ります。ここで騒ぎを起こすわけにはいきません!」

「……本気かい?」

「ほ、本気です。アッシュ、えと、姉さんの言うことを聞いて……!」

 アッシュの肩が跳ねる。言いつけを吟味するまでもなく、彼は薄く笑った。

「────うん。わかった。姉さんはいつも正しいからね」

 その時アッシュは、首元から提げた小さなネックレスに触れていた。独房にいた頃から身に着けていたものだ。ロザリオでもドッグタグでもなく、なんでもない小さな銀の破片だった。

 二人とも乗り込み、ドアが閉まる。運転手がアクセルを踏み、車が急加速した。


 思わず妙なことに首を突っ込んでしまった。悪い癖だと、ミソギはため息をつく。

 奇妙な姉弟だった。外国人のようだが、スター・ウォーズのジェダイみたいなローブに身を包んでおり、一見してどういう二人組なのか判断がつかない。

「お前ら、姉弟なのか? そうは見えねぇけどな」

「それは……家庭の事情、といいますか」

 そもそも後部座席の少女は姉には見えない。けんこうこつのあたりまで伸びた金髪は弟のそれより色素が薄く、いわゆるプラチナブロンドに近い。瞳の色はエメラルドグリーン。まあ姉弟間で髪や目の色に違いはあるだろうが、それらを差し引いても若すぎる。

 助手席の弟は、絵に描いたようなゴールデンブロンドに、深いサファイヤブルーの瞳。寒気がするほどの美男だった。一から十まで作り物と言われても信じるが、どことなく憂いや皮肉を帯びた表情はまさか樹脂製ではあるまい。一見して人かどうか迷ったのは、下手をすれば死人よりもくらい瞳をしていたからで、それがまた凄絶な美しさに拍車をかけていた。

「どんな事情にしても、そろってとうきよう観光はちょっと無謀じゃねぇか?」

「あ、あなたには関係ありませんっ。そんなこと言うなら乗せなければ良かったでしょう!」

 かわいくないことを。しかし言う通りではある。わざわざ車に乗せてまで逃がしてやる義理など一つもないわけで、だからそれが、悪い癖なのだった。

「年下の女はなんか、ほっとけねぇんだよ」

「年下って……あなただって、私とそう変わらないように見えますが」

「ばーか、もうじやに見た目のとしなんざ関係あるか。こちとらアラサーだわ」

 ミソギは享年十八歳。幽界化が起こったのはまだ学生の頃だ。もうじやは成長も老化もしない。

「オレにも妹がいてな。だからまぁ、条件反射みてぇなもんだ」

 妹という単語に、弟の方が初めて反応を見せた。これまで黙って外を見ていた彼は、窓の反射越しにはっきりこちらに焦点を結ぶ。へぇ、という顔。

「──で? 結局お前らこんなとこで何してんだよ。本当に観光ってわけでもねえだろ」

「仕事さ」弟が答えた。「ひらたく言えば、ゴミ掃除をね。君は?」

「……まあ、取り立て屋ってとこだな」

 どちらも本当のことを言っているとは思っていない。後ろの姉はともかく、弟はどうにも嫌な感じがする。具体的にどこがどうというのでもない、かんにも似た予感だが──

 ぐぅ。

 いきなり妙な音。見ると後ろで、姉が腹を押さえて赤面している。

「……なに、腹減ってんの?」

「ち、違います! 変な気を回さないで!」

 横目で弟と目を見合わせる。わかっているだろうね? ──と言いたげなこいつに従うのもしやくだが、どうせこっちも腹に何か入れようと思っていたところだ。変に突っぱねて因縁をつけられるのも嫌だし、結局、ドライブスルーの牛丼屋に寄った。

「…………はしたない…………」

「何ヘコんでんだよ。腹くらい誰でも減るわ」

 死んでいようと腹が減るのは、実際に死んで初めてわかったことだ。殊にミソギの体は何かと燃費が悪い。いつものようにうなどん特盛りを注文し、姉はをして並盛りを頼んだ。

 とうきようではうなぎがよく食べられており、牛丼屋の看板でも一番よく出ているのはうなどんというのがザラだった。適当なところで車をめて容器を開くと、かばきの香りがふわっと漂う。

 姉はしばし容器を見つめたかと思えば、両手を合わせて何やらむにゃむにゃつぶやきだした。

 ミソギは「うげ」とうめいた。食前のお祈りというやつだ。

「やめとけやめとけ。んなもん誰も聞いちゃいねぇよ」

「むっ……どうしてそんなことが言えるんですか」

「神様なんてのがいたら世の中こんなことになってねぇだろ。他はどうだか知らねぇが、少なくともこの街じゃお祈りなんざ意味ないぜ」

「そこまでだ」横から弟の冷たい声。「君が神をどう思っているかは知らないが、姉さんのやることに文句を挟むのは許さない」

 はいはい悪かったよ──と両手を挙げるミソギ。姉はしばしミソギをにらんでいたが、やがてお祈りの続きを終え、プラスチックスプーンを手に取る。タレのみたうなぎを、ふっくら炊き上がった白米ごと一すくいすると、香り立つ湯気がほわっと舞い上がった。

「はむっ。……はふ、ほふ。ん……。……!!」

 スプーンが進む進む。どうやらお気に召したらしい。

 そのうなぎもうじやですとは、言わない方がよさそうだ。

 このご時世、天然物のニホンウナギなどとうに絶滅して久しい。ところが幽界化を境にないの河川で大量のうなぎが確認された。彼らも帰ってきたのだ。

 さて──そろそろ夜も本番。もうじやたちが仕事や遊びに出てくる頃だ。

 戻ってきた死者の生前の時代はバラバラだ。これまでミソギが見た中で一番古いのは平安時代の自称おんみようだった。大抵の場合は現世に未練があるやつらばかりだから、戻れば戻ったで未来の世界をエンジョイしていたりする。悪さをしないうちはミソギも手を出さない。ターゲットはあくまでも、えん帳に記されている札付きの悪人だ。

「……っと、そろそろ時間だ。オレは行くから降りろ」

「はむ、ふはふは……ふぁ!? そ、そうだ、お金は?」

「あ? いいよ別にケチくせえ。ゴミだけ自分でどっかに捨てとけ」

「か、借りを作るのは嫌いです! 待っていなさい、今倍にして返して……!」

「姉さん、僕らは現金を持ってきてないよ」

 この十年でキャッシュレス化が進み、わざわざ現金を使っているのは日本、それもとうきようだけでの話だ。イギリスは完全に電子決済が主流になったのだろう。慌てる姉を穏やかに制して、弟はローブのポケットをまさぐった。

「これを。迷惑料込みだ。換金すれば食事代にはなる」

 指ではじかれたそれを反射的に受け取ってしまう。別にいらないのだが。

 ミソギは降りていく二人を見送り、なんとなく感じていた嫌な予感をはんすうする。

(……あいつら、聖職者じゃねぇだろうな)

 小さく頭を振った。食前の祈りなんてあっちの文化圏なら当たり前だろう。どうせもう関わることもないだろうし、ミソギは仕事のことだけを考えることにした。

 片手でハンドルを握り、弟に渡されたものが何なのか確かめてミソギは総毛立った。

「うげっ!?」

 ばっちいものみたいに窓から投げ捨てる。とんでもないものを寄越してきやがる。絶対わざとだ。こんな腕じゃなければ、火傷やけどじゃ済まない代物だった。

 ネオンを反射し、路上で跳ねるそれは、純銀製のコインだった。


 結局、見知らぬもうじやに助けられてしまい、フィリスとしては複雑な気持ちだった。

「ごめんよ姉さん。僕が離れちゃったばっかりに」

「あ──そうだ、アッシュ、あなた今まで一体どこへ行っていたんですか!?」

「調べもの。色々と面白いことがわかったんだ」

 アッシュはにこやかにローブをはだけた。

 下に着こんでいるのは漆黒の神父服カソツク。応じてばらばら落ちたのは、青ざめた人間の耳だ。

「……!!」

「商売人があちこちにいてね。ほとんど外れだったけど、根気よく調べてるうちに詳しいやつを見つけた。そいつが言うには、これから港に大事な荷物が運び込まれるらしい」

 この耳は商売人たちのものということだろう。の過程で千切り取ったものを、まるでトロフィーのように抱えていたのだ。今までずっと。

「褒めてくれるかい、姉さん?」

 しゆんじゆん。アッシュはお遣いを済ませた少年の顔。

「え、ええ。……よくやってくれました。姉さんはうれしいです」

「ありがとう。あなたがうれしいと、僕もうれしい。──さて」

 アッシュの雰囲気が、笑顔をそのままに一瞬で冷え込む。

 暗い穴の中に落ちたかのような急変にフィリスはりつぜんとした。今まで「よそ行き」だった男の態度が、仕事に際して本来の鋭さを取り戻した瞬間だった。彼にとってそれは、ポケットから抜き身のナイフを取り出すように簡単で気軽なことだ。

人喰い鴉レイヴン、任務に入る」

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