プロローグB 人食い鴉

 ロンドン塔には化け物が現れるという。

 半分合っているし、半分間違っている。

 まずこうかんささやかれる色々な怪奇たんのほとんどはデマである。

 成り立ちは十一世紀末にまでさかのぼる国王の宮殿にして城塞、裏では刑死や幽閉が日常の監獄だったというから、りようの一つや二つ出てくるような「いわく」には確かに事欠かないだろう。しかし、どこそこで誰かが死んだから今でもその人の幽霊が出るという説が本当なら地上はとっくに幽霊でごった返しているはずだし、なにもロンドン塔に限った話ではない。

 よってうわさささやかれるような年季の入った幽霊はいない。いたとしても駆除するだけである。

 だが、「化け物」は確かにいるのだ。

 その由来は、フィリス・カタリナ・フォークスが歩くロンドン塔の暗部にこそある。

 塔内の一般立ち入り禁止区画には、各「禁域」へ至る最新式のリニアエレベーターが通っている。緊急時避難シェルター、貴重な祭具や文化財の保管室、──そして地下深くのとある施設。

『彼』とたいするにあたっての重要事項は幾つかある。

 恐れてはいけない。敵意を抱いてはいけない。彼の話に耳を傾けてもいけない。支配下に置くなどという考えはもってのほかで、お互いの関係性に細心の注意を払わなくてはならず、その上で隙を見せてはいけない。

 そして、常にということを示さなければならない。

 化け物は、厚さ20センチもある強化アクリルガラスの向こうにいた。

 生活の気配をまるで感じさせない小さな部屋。椅子一つ卓一つがぽつんと並び、部屋の隅には本が山積みにされてある。部屋の主はベッドに座っており、フィリスに微笑を浮かべた。

「やあ、姉さん。今日もれいだね」

 春に吹く風のような声が、スピーカー越しにフィリスの耳をでた。

 恐ろしいほどの美男だった。金糸の髪と、きらめくせいらんの瞳。はくせきの面貌は長い地下生活でもまったくかげりを見せず、殺風景な部屋の中でいっそ幽霊的なほど輝いている。彼が着古した囚人服姿でさえなければ、ここが最重要犯罪者用の独房であることを忘れてしまう。

人喰い鴉レイヴン。仕事の時間です」

「つれないなぁ。アッシュって呼んでくれないのかい?」

 じゃれるような笑みには邪気の一かけらも無い。会話の口火を切って初めて、フィリスは自分が震えていることに気付いた。そもそも男とは初対面である。後ろには武装した刑務官が三人控えているが、彼の視界には最初からフィリス以外入っていないだろう。

「出房許可が下りました。すぐに移動します、用意を」

「また、正しい行いが必要なんだね?」

 拘束衣を着せ、車輪付きのケージに移されても、囚人はフィリス以外に興味を示さない。


 指令室の卓には三人の審問官が並び、彼に関する無数の書類を広げて目を光らせている。

「任務の説明を行う」

 ターゲットと作戦の概要を聞くともなしに聞いていた囚人は、ある単語に反応した。

「トウキョウ?」

「そう。幽界現象の爆心地の一つであり、今や世界有数の危険地帯だ」

「今度は日本か。──装備は?」

「隊の保有する個人火器を適宜支給する。後ほど武器庫へ案内しよう」

「救済兵装の使用は?」

「第Ⅲ種まで許可。以降は作戦の状況に応じて判断する」

「メンバーは?」

「いつも通り、君一人だ。情報担当補佐官として──君の『姉』を付き添わせる」

 指一本動かせぬまでに拘束されたまま、彼はこの場で誰よりも気負いのない笑みを見せた。

「それは心強いや。うん、了解。それじゃ行かせてくれるかな」

 全てのブリーフィングを終え、若き囚人は大手を振ってロンドン塔地下刑務所を後にした。

 身にまとうのは漆黒の神父服カソツク。聖書の代わりに巨大なアタッシュケースを提げ、その首元では金色の首輪が光っている。ヘイロウと呼ばれるこの装置により、着装者のバイタルサインと位置情報はリアルタイムでフィリスの端末に送られる。

「ほら、姉さんも早く来てみなよ。カラスがたくさん飛んでるんだ」

 曇天に飛ぶワタリガラスを追うように、囚人は一歩踏み出して笑った。その朗らかな表情を見て、誰が彼の正体に気付けるだろう。

 アシュトン・グレゴリー・デリック、二〇歳。作戦時コードネームは人喰い鴉レイヴン

 もうじや・怪異、あるいはそれに関わる犯罪行為への対処を専門とする特務機関「アナテマ」。その重要度がきわめて高い任務に従事する特別エージェントである。

 常にたった一人であらゆる任務を成功させ、どのような地獄からも生きて帰ってきた。いわば切り札であり、個人の作戦遂行能力は隊内でも最高とささやかれている。

 だが、ほかならぬ本人の経歴が、彼の立場を極めて複雑なものとしていた。

 彼は人もも問わず、たった五年で一〇〇人余りを手にかけた元大量殺人鬼だ。

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