(45)上洛

 翌朝、四時半に目覚めて階下に向かうと、いつもと違って味噌汁にお浸しと玉子焼きが用意されていた。まだ温かい味噌汁は、作ってまだ間のない物なのだろう。夜のうちに教えてくれていればもう三十分は眠れたのに、と笑ってから水無香の分も並べてからできる限り音を立てないように頂いた。

 一時間ほどして水無香と共に家を出る。深く閉ざされた世界のように闇が辺りを覆い、尖りきった冷たさが頬を切る。私が鍵を締める合間に隣からも戸の閉まる音が響き、旅立ちはいつもと同じとなった。

「おはよう、水無香ちゃん、博貴」

「おはようございます。朝からお元気そうですね、瑞希」

「うん。ちょっと大変そうだけど、みんなでお出かけできるんだもん、ワクワクしちゃうじゃん」

 落ち着いて相槌を打つ水無香も、いつもより声が半音ほど高い気がする。それが通い慣れたはずの道を瑞々しいものに変え、並んだボストンバッグの鮮やかさがさらに彩りを加える。

 思えば、半年前はさしたる感動もなく、それこそモノトーンの存在でしかなった修学旅行が色彩を持って目の前に広がっている。どうせ代わり映えもせずそこに在るだけだろうと思っていたものが、これほどに表情を変えてしまうものかという驚きはひどく活き活きとしている。

「ねー、ボーっとしてたら置いてっちゃうよー」

 二十メートルほど離れていた霧峯が、大きく手を振る。それに笑って応じると、私は肩に少し食い込んだ鞄と共に駆けだした。


 学校に集合した後、私達は順に大型バスへと詰め込まれ、北上して長崎空港へと向かう。途中、芒塚から長崎道に入るのだが、まだ夜も空けぬというのに周りの興奮は既に頂天に達している。それを山ノ井はいつもの穏やかな表情で眺めてい、私は霧峯に巻き込まれる形で一緒に声を上げていた。

 やがて空港に着いてからは準に手荷物検査を受けていったのだが、ここで盛り上がりを見せたのは誰よりも水無香であった。特に、金属探知機で鋏が見つかった級友を見て、

「なるほど、技令無しでも簡単に見つかるものだったのですね。これは危ないところでした」

と目を見開いて漏らしていたのは印象的であった。一方、霧峯の方は慣れているのか粛々と検査を受けて楽しそうに空を眺めている。

 そして、離陸してから見ていると明らかに水無香の表情が冴えないでいる。高所恐怖症なのかと訊ねたのだがそうではないようである。

「いえ、高いところは問題ないのですが、空を飛ぶというのは技令ですと高位のものですので、頭の理解が追い付きません」

 前の方の座席で新しく赴任した理科の大森先生がぱんぱんに膨らんだポテトチップスの袋を掲げて何やら話をしている。その落差で思わず笑ってしまい、水無香の不服を買う。

「いやいや、悪い。でも、科学でも空を飛ぶのはかなり難しいことだったから、水無香がそう思っても不思議はないさ。よくよく考えてみれば、この百年ほどで最上位の科学を広く利用できるようになってるんだから、それこそ大変なことだよな」

 私の言葉に、水無香が頷く。堂々たる大森先生の白衣姿は、しかし、それがどこまで現実のものであるのかを曖昧にする。少しだけ落ち着いたのか、水無香の眉がやや下がる。

「それにしても、大森先生はなぜ飛行機の中でも白衣なのでしょうか。持ち込む手荷物としては大きすぎると思うのですが」

「まあ、あの先生も変わり者だよな」

 ただ、実験を基に組み立てていく授業形式は人気があり、生徒からは広く愛されている先生でもある。黙っていれば爽やかな男性に映るのだが、楽しそうに理科の話を始めると途端にそれが崩れるのも良い。

「ねぇねぇ、あれってどうなってるの、博貴」

 席を外していた霧峯が、目を輝かせて訊ねてくる。こうした好奇心の塊が食いついてくると、先生も機内に持ち込んだ甲斐があるというものだろう。

「ああ。ああいった袋の中には気体が詰められてるんだけど、それは地上の気圧に合わせてあるんだ。それを飛行機で上空まで持ってくると、気圧が低いから袋の気圧の方が高くなってあんな風に膨らむんだ」

「ふーん。空気の力って大きいんだね」

 霧峯の一言に、水無香と二人で苦笑する。私の説明がいけなかったのかもしれないが、そう簡単に片付けられてしまうとどうしようもない。少女はきょとんとしてい、大森先生は語り終わって着座する。雲の上を行く銀翼はやがてその身を休めるように山際の滑走路にその身を降ろした。

 そこからバスで再び移動し、途中で昼食を頂いてからホテルに荷を下ろしての自由時間となった。図書部八名が詰め込まれた部屋は最も非常口に近く、眼下に広がる景色は明らかに長崎とは異なるものであった。

「二条里君、準備は済みましたか」

 肩掛けの鞄を手にした山ノ井が、既に準備万端という様子で正座して待機している。その様子はいつもと変わらず、穏やかな笑顔そのままに落ち着き払っている。それに対して、部屋の向こう側で渡会が枕を見つけて枕投げしようぜと張り切っている。

「ああ、そんなに荷物があるわけでもないからな」

「では行きましょう、お二人をお待たせするわけにはいきませんから」

 山ノ井に促されるままに靴を履いて部屋を出る。エレベーターで降りてからホールで待つのだが、既に出発する生徒も多いのか学ランと褐色の制服の姿はもうまばらとなっていた。

「お、二条里君と山ノ井君だね」

 理科の大森先生が白衣姿で出発を確認しており、完全に旅先の景色の中で浮いてしまっている。だからこそ分かりやすいのであろうが、流石に苦笑を隠すことができない。その中で平然としている山ノ井は流石と言うべきなのだろうか。

「まだ霧峯さんと内田さんは来ていないようだけど、外に出て待つかい」

「いえ、寒いですから中で待つことにします」

 母さんから京の冬は寒いと聞いていたが、その言葉は正しく骨身に沁みる。中にセーターを着こんではいるが、それでも時に吹き込む外気が容赦なく私の温もりを奪おうとする。

「二人ともこういう時だから、しっかり楽しんでおいで。修学旅行だからあまり好き勝手はできないかもしれないけど、たまには、悪いことの一つでもしてきたらいい。いつもと違うんだから」

 大森先生が快闊に笑う。それに相槌を打つうちに、向こうから元気な声がホールを満たした。

「ごめーん、お待たせ。さあ、早く行こう」

 走るようにしてこちらに向かってくる少女と静かに従う彼女の姿は対照的でありながら、どちらもどこか眩しく感じられる。いやぁ、元気でいいなあという大森先生の言葉が胸にすとんと落ちてくる。

「青春の一ページって、こういうものだ」

 誰よりも輝かしい笑顔を浮かべた大森先生の言葉に頷くと、私もどこかから楽しい気持ちが湧き出るような気がして、小さく首を降った。

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