(44)母の在り方

 翌日は学校を休んだ雨澄も水曜日には復帰し、一先ずは日常は元へと戻った。あの一件に関する言及はなく、こちらからも何かをしたわけではなかったため、お互いにそれ以上掘り下げることはなかったのである。ただ互いに、より一歩引くようなよそよそしさは残ってしまい、暫くは顔を見ることもなかったほどである。


 ようやくその姿を目にしたのは修学旅行前日の集会の時であり、陽光のせいか少し青白く見えた。一瞬沸き立つものを感じながら平生を顔に貼り、可能な限り日常を保つ。


「繰り返しになりますが、持って行っていいお小遣いは一万円までです。それ以上は先生たちに見つからないようにしてください。靴底の裏やペンの中は調べません。くれぐれも財布に一万円以上は入れないようにしておきましょう」


 子供たちに「悪事」を勧める校長先生の話が終わり、学年主任である高野先生の注意事項の確認が行われる。それを耳にしながら、私は平和公園の戦いの翌日に辻杜先生の言葉を反芻していた。




「図書部員は行動が制限されない、ですか」


 九割方の本が戻った図書室に集められた二年生の面々を前にした、辻杜先生の説明の初めを聞いて私は思わず口を挟んでしまった。ただ、驚いたのは他の面々も同じだったようで、耳目をすっかり集めてしまっていた。


「ああ。班分けもクラスを横断して行えるようにし、部屋割りも意図的にそうした。修学旅行が延期になったのを利用して校長と調整したが、お前達は何かがあっても無くても俺が責任を持つから自由に動け」


 先生の言葉を噛みしめるように頷気ながら、しかし、そこにある表情は明らかに緊張である。これほどの戦いが続いているため、既に先生の言葉が単なる慰労や気まぐれではなく、そうした事態を想定した、いや確信した処置であるという思考が自然なものとなっている。唯一、渡会だけは満面の笑みでそれを聞いているのだが、彼だけは先生の言葉を額面通りに受け取ってしまったのか、それとも、待ち受ける戦闘に対して興奮を隠せないのか。


「まあ、そう緊張するな。恐らく戦闘はある。ただ、お前達も戦い詰めだから少しは自由をやってもいいだろうという思いも本物だ」

「結局、戦うんですね」

「恐らくな。レデトールの動きもあるが、それとは別によく分からん奴らが俺達を目の敵にしているらしい」

「よく分からない、ってどういうことですか」

「ああ、俺も聞いた話でしかないんだが、どうやら勇者を名乗る奴が技令士を集めて義勇軍を作ったらしくてな。レデトールを知らんのか、俺達を子供から自由を奪って戦わせる集団として敵視しているそうだ」


 水無香と山ノ井以外に表情の曇りが、辻杜先生を非難するように広がる。元はと言えばそのような集団を創り上げた元凶は目の前にあり、それに剣が向かずにこちらへと向く不条理が溜息となって表れる。




 私が生死の狭間と引き換えの自由を得たことを、周りを囲う黒と褐色の集団はほとんど知らない。彼らにとっては制限された中でありながらも、日常から離れた楽しい行事の一つでしかないのだろう。その一方で、私にとってのこの修学旅行は組み替えられた「日常」の延長となってしまっており、果たしてそれは「自由」と引き換えにするほどのものであろうか、と思わずにはいられない。


 更新された青色の栞の表紙を笑顔の男女が飾る。それが酷く眩しいな、と感じた私は首筋に当たった隙間風に一つうち震えた。







 夜の九時過ぎ、荷物を一通り準備し終えた私は、最後の確認を行っていた。何分、これほどの遠出は単身赴任先にいる父さんの家を母さんと訊ねた以来であり、その時は下着を忘れて母さんから笑われたものである。同じことをすれば、今度は渡会に笑われることだろう。


 並べた荷物を作ったチェックリストで確認しながら鞄に詰めていく。寝間着と下着に、制服のシャツの替えを入れ、さらに洗面具などを加えて常備薬を端に詰める。買ってもらったデジタルカメラと保険証の写しは肩掛けの鞄に入れ、司書の剣は革製のボストンバッグの最後に添える。技力を加えていないため今はペーパーナイフでしかないが、それでも空港の手荷物検査では引っかかってしまう。これについては、水無香にも先に念を押しておいたのだが、最初は戸惑った様子で後に渋々ながらこれに応じていた。


 鞄を閉じたところで、一息吐く。明日は朝の六時に学校へと集合完了するようになっているため、そろそろ眠りに就く必要があるのだが、なかなかそうもいかない。普段が日付を跨ぐかどうかという時間に寝るため、眠気というものが全くない。仕方なく、牛乳でも飲もうとリビングに降りると、そこには珍しく母さんの姿が在った。


「あんた、まだ起き取ったとね。早よ寝んと、遅るうよ」

「まだ眠れないから、牛乳でも飲もうと思ってね」

「そがんと、ウィスキーでも入れて飲めばよかたい」


 未成年なんですけど、と母さんに答えながらレンジで牛乳を温め、テーブルで向かい合う。小皿に盛られた落花生を割って口に放り込んだ母さんは、細身のコップの半分を満たしていた麦酒を勢いよく飲み干す。


「母さん、麦酒ってそんなに美味いの」

「なんね、飲みたかとね」

「いや、そうじゃなくて。苦いんだろ、麦酒って。だから何で飲むのかな、って」

「そがんと、美味しかけんに決まっとうたい」


 笑った母さんはもう一つ落花生を口に放る。それなりに飲んでいるのか、いつもより顔が赤い。


「そいでも、あんたにゃまだ分からんやろうね。こいの分かっとは、恋と同じでちいと苦か経験ばしてからやろね。もう少しばかり大きうなってからね」

「ええ。どうせまだ色恋沙汰の遠いお子様ですよ」

「なんば言いよっとね。そこまで言うとらんたい」


 温まった牛乳に口をつける。優しい甘みが広がるのを感じていると、母さんの笑いも少し柔らかなものに感じられる。


「あんたがなんばしよっとか知らんけど、あんたがどがんことばしよっとかは分かっとよ。やけん、あんたがこん味の分かっとも、そがん先んことじゃなかとやろうね」


 注ぎ直した麦酒を母さんは口にして、ゆっくりと息を吐く。テレビではアメリカの大統領に扮した芸人が、プリュッツェルを悪の枢軸と言って笑いの的になっている。それを見ているのか見ていないのか、私の方をに向いた表情は酷く穏やかなものであった。


「そいで、あんたは水無香ちゃんのことば、どがん思っとうとね」


 だから、母さんの口をついて出た言葉に、私は不意を衝かれる形となった。


「どがん、って言われましても」

「一つ屋根ん下に、よーか子のおっとやけん、いくらそがんとに疎かあんたでも、ちぃとは思うとこはなかとね。それとも、隣ん来た霧峯さんとこの子の方がよかとね」


 悔しいほどに笑顔を剥き出しにした母さんに、言い返すことができない。笑っていたその目元はやがて確りと見開かれ、そして、私を真直ぐに見据えるものへと転じた。


「あんた、覚えとかんねよ」

「きゅ、急にどうしたんですか」

「どがん思うとってもよかけど、水無香ちゃんば泣かしたら承知せんけんね。本当の親のもうおらんとやけん、うちで守ってやらんと、ね」


 酔って座っただけと思っていた母さんの目は、しかし、私に有無を言わさない圧を与える。それは確かな母さんの目であり、その昔、お化け屋敷を入り口から飛び出した私に向けられたものと同じであった。


「気を付けて行ってこんねよ」


 部屋へ戻る母さんの目はまた酒飲みのものに戻っていたが、その言葉は変わらなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る