第五章 悪の枢軸プリュッツェル

(54)月の灯り

 修学旅行から帰宅してすぐに部屋を掃除した私は、旅の疲れもあってか霧峯が窓から訪ねて来たことに気付かなかったようである。

 母さんから叩き起こされた私は早く着替えるように言われ、寝惚け眼を擦りながら服に袖を通そうとしていく。

 しかし、そこで肌着を前後ろ反対に着ていたことに気付き、慌てて着直そうとしていた。


「それにしても、博貴も寝坊が過ぎますよ」

「あはは、もう、お昼前だもんね」


 だからこそ、周りの音に気付きもせず、水無香が部屋の戸を開けた瞬間には、ズボンこそ履いているものの上半身は何も纏わぬ状態であった。

 五分後、私達は何とも気まずい空気の中で炬燵を囲むこととなる。


「だ、だいじょうぶ。下着とか見えなかったから」


 少女の精一杯のフォローがかえって私に暗い影を落とす。

 いや、下着を見られなかったということは、素肌の部分を見られたという証拠ではないか。

 それでも、ここで動転してしまえばどこまでも落ちてしまいそうである。

 努めて平静を保つ。


「大丈夫ですよ、減るものではありませんから」


 ノックもせずに戸を開けた主犯は既に居直ってしまっている。

 果たして彼女は私が風呂やお手洗いへと行くたびにノックを重ねているのを知っているのだろうか。

 果たしてそのせいで、修学旅行でも自室に入ろうとしてノックしてしまい渡会に笑われたのを知っているのだろうか。

 ただ、私が怒ったところで仕方がないことだけは分かる。


「そういえば、母さんはどうしたんだ」

「お母さんなら、博貴を起こしてから出かけられました。急ぎの面談が入ったそうで」


 母さんは昔から忙しい。病院に勤めながら看護師でも医者でもない。

 しかし、患者に何かがあれば急いで駆け付ける。

 それがいいのかどうかは分からないものの、


「母さんはね、患者さんの持っとう社会の病気ば治すとが仕事やけんね」

という一言で自分の仕事観を描き切ったときには、思わず格好良さを覚えたものである。

 メディカルソーシャルワーカーという長々しい名前を覚えられたのもそれが理由なのかもしれない。


「でも、霧峯も今日は遅かったんだな。十一時過ぎに来るなんて珍しいじゃないか」

「ううん。十時前にはお邪魔してたんだけど、博貴のお母さんと色々とお話してたの」

「ええ、博貴が起きてくるまで待つ予定だったのですが、なかなか下りてきませんでしたので、お母さんが起こしに行かれたんです」


 とんだ藪蛇を突いて出してしまったと嘆くがもう遅い。

 そこから先、水無香のお小言が続くのであるが、この寝坊にはそれなりに理由がある。




 京都から戻った私は、その時に円柱技令を仕込まれた紙の分析を進めていたのだ。

 それが深夜の二時頃までかかってしまい、結果として寝不足からの悲劇に繋がったのであるが、それを話したところでどうしようもない。

 今は苦笑する霧峯の横で溜息を吐く彼女の気が済むのを待つより他になかった。


「と、あまり博貴を責めている訳にもいきませんでした。瑞希からの話を伺わないといけません」


 しかし、それが思ったより早く済んだのであるが、それだけに、少しだけ右手が汗に湿る。


「うん、何かあったのか」

「うん。おじいちゃんがね、月技令を勉強しなさいって、突然言ってきたの。それで何か分かるかな、て」


 私の中に通ったものよりも、水無香の表情の方が私に緊張をもたらす。

 日光の技令がある以上、月の技令があっても可笑しなことはないのだが、それをあのおじいさんが言ったというのが、私には、いや水無香もそうなのだろうが、どうにも一手先を見据えたもののようで不安を煽る。


 そして、当の霧峯の表情もどことなく強張っている。


「月技令、正しくは月光技令というのですが、これは日光技令の対になっていまして、陰の技令です。通常の光技令とは異なり、月の力を帯びていますので、一部の召喚体などに対して特別な効果を与えるものです。ただ、その範囲というのが分かり辛く、本当に効果があるのかも眉唾ものです」

「なんだそれ、そんなの試した結果じゃないのか」

「いえ、日光技令は明確に吸血鬼や死霊など効果を増す明確かつこの世界では一般的な対象があるのですが、月光技令の対象は並行人。幾つかの伝承にのみその存在を知られた、位置的並行相違世界の住人に対してだけなのです」


 私が首を傾げるのと同時に、目の前の少女も斜めに傾く。

 水無香も察しているのかもしれないが、既に私達の間には知識の溝が出来上がってしまっていた。


「水無香ちゃん、そのナントカ世界って、何なの」

「位置的並行相違世界、ですね。説明しだすと長くなりますが、よろしいですか」


 水無香の問いかけに頷く前に、少し待たせてから紅茶セット一式を運び込む。

 こうした時、何よりも大事なのは心に新たな情報を受け入れるだけの余裕である。

 呆れた水無香の視線を無視して急ぎ支度し戻ると、安堵の表情を浮かべた少女の姿に一つ息を呑んだ。




 話を聞いてみると、どうやらこの世界は一つではないらしい。


「私達の世界は木苺の粒のようなものです」


 こう切り出した内田は、私達が観測できる別の世界が大きく分けて、位置的並行相違世界、技令的並行相違世界、時間的並行相違世界の三種類あると言った。


「位置的並行相違世界は、単純に飛び越えるのが非常に難しい壁の向こうにある別の世界です。そもそもこの世界は大きな風船のようなもので、空間座標が異なるところには、いくつか別の世界があると言われています。また、技令的並行相違空間は技令によって無理矢理作られた座標に形成された世界です。技令界はこれに近い技令と言われています」


 平然と水無香は話を進めているが、思わず霧峯と二人で目を見合わせてしまう。

 それもそのはずで、これまで二度、私に至っては三度まで戦わされた山ノ井の渾身の一手が、聞けば聞くほど恐ろしく感じられるのだ。

 それこそ、新しい世界を創ろうとした、と言い換えてもいいのかもしれない。

 それを、彼女は無表情に淡々と説明する。


「時間的並行相違空間は、この世界に付随した、時間にずれのある世界です。これは時間技令を究めることで訪ねることができると言われていますが、その断片は千里眼や予知夢という形で発揮されるようです」


 予知夢という語句で、霧峯の夢が脳裏を掠める。

 成程、あれは別の世界を覗いたものだったのかという感心は、レモンの甘酸っぱい香りに消えた。


 さらに詳しく聞いていくと、技令的相違空間で最大級のものの一つが司書の塔であるという。

 どこでもあの空間への道を開けることはできるものの、その空間を維持するには膨大な技力が必要であり、それが自動的に供給されるあの場所だからこそ維持ができているのだという。

 そうした地脈に通じた司書の塔が、他にも六つあるという。


 また、本来であれば行き来することのできないとされている位置的相違空間だが、どこかにその行き来のできる場所があるとされており、加えて、極めて高い力量を持つ技令士であれば移動できるらしい。


「そもそもお伽話や怪異の伝承というのは、位置的相違空間に迷い込んだ人の土産話であるという学説もあるのですが、現在でも結論が出ていません。そもそも疑似的な異空間への干渉さえ難しいのですから、相違空間の行き来はできないというのが……」


 目の前で饒舌に語り続ける水無香に対して、目の前の少女は既に頭が弾けそうになっているのが分かる。

 あっちこっちに泳ぎ続ける目を見れば、霧峯の思考が手に取るようであった。


「それで、結局はどうすればいいんだ。相違空間の話もいいが、それよりも月技令をどうやって習得するかの方が大事じゃないのか」


 私が話に差し込むと、水無香の眉間にしわが寄る。

 しかしこれ以上、少女が放心状態となりカップを割られても困るので、敢えてその表情を視界から外した。


「いくつか方法はあるのですが、最も早いのは日光技令を反射する練習をするものです。他の技令士が使用した弱い日光技令を受けながら陰の気を練り、その力で以って相手に返すことで月の力を得ることができます。幸い、博貴が日光技令を用いることができますので、大きな問題はなさそうです」

「いや、確かに日光技令を使えるが、出力の調整なんてまだ」

「ええ、それも含めての練習です。八卦陣を求めようとされるのでしたら、避けて通れない道のはずです」


 水無香の言葉に、心音が一際高く鳴る。


「何を驚いてらっしゃるのですか。山ノ井さんとの訓練で八方位に均等な技令を配置するという芸当を成したのです。その先にあるのは一つの極みしか考えられないでしょう」


 言われて初めて、今の自分の位置に気が付く。


 そもそも山ノ井との一戦で八方陣を用いたのは、自分が複数の技令配置を操れないと思ったからである。

 陰陽陣を習得しようとしたときでさえ、自分の中にある陽の技令に悩まされていたのである。

 それが八つともなれば技令の出力を調整するなど容易にできなければ話にならないだろう。


「博貴にも悪い話ではない、と思いますけどね」


 悪戯のように笑った水無香の顔が、どこか冬日に映え、私は息を飲んでしまった。

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