第28話 本当の望み
地獄はいつまでも明るい。
揺らめく炎の純粋な赤は、黒い空をも染め上げる。
炎を囲う、鋭い岩山は近づくだけでも、じくじくと焦げるような痛みが走る。
岩肌の向こうからは、時折苦しげにもがく手が逃げ出そうと覗かせるが、次の瞬間には炎がさらってしまう。
死者の断末魔は絶え間なく続き、鬼の雄叫びと、激しく響く金属音が、その悲惨さを助長する。
音が小さくなったかと思えば、『よみがえれ、よみがえれ』と、愛おしく囁くような声が辺りに響き渡り、また断末魔が聞こえる。それを延々と繰り返していた。
私はそれを、絵画でも鑑賞するかのように静かに見つめていた。
刑場があるらしき場所は見えないが、中で起きていることは分かる。人が一番恐れることは、苦しみが永遠に続くことだ。
地獄というのは、まさに人の恐れの具現化。だからこそ、中で起きていることも、その残虐極まりない仕打ちを受ける人の恐怖も、理解は出来る。
──私には全く興味の無いことだが。
「さっさと決めろよなぁ。死後の願望くらいよぉ」
私がぼぅっと刑場の方を眺めていると、あの鬼女が話しかけてきた。
一緒に窓にもたれかかって、うるさい刑場を見つめる。鬼女は、心底面倒臭いと言わんばかりに文句をぶつけてきた。
「てめぇ、ただでさえ四十九日を過ぎた魂だってのに、無理やり地獄の門を開けた大罪人なんだぜ? さっさと望みを決めて地獄に落ちろや」
「じゃあ、さっさと落とせばいいじゃん。なんで無理やり望みを叶えさせようとすんだよ。ここ地獄だろ」
「地獄にも手続きっつーもんがあんだよ。それが終わんねぇと、地獄に落としたくても落とせねぇし、死後の願望は前から言ってっけど──」
「酒呑童子の酒の匂いがすんだろ。さすがに覚えたよ。それに私は······」
──親に褒められる。それ以外に願望はない。
嘘でいい。幻でいい。直接じゃなくてもいい。
死んでも焦がれたたった一言の望みは、鬼女に渋られた挙句に『無理だ』と突っぱねられた。
鬼女は私に他の願いを求めたが、私には何の願望も出てこなかった。
「あのさぁ、なんでアレは叶えられないの?」
私がそう聞くと、鬼女は目を逸らして窓枠の上で腕を組む。少し眉間にシワを寄せると、とても言いづらそうに口を開いた。
「現世に残る、家族との繋がりっつーのはさ、色んな形で死者と結ばれんだよ。遺言、遺品、思い出、あとお前が忘れた名前とかな。それらにある繋がりで
そこまで言われると、先を聞かずとも分かる。
「私に家族との繋がりは無いんだ」
私がはっきり言うと、鬼女は諦めたように断言した。
──お前が家族に会う術はない。親類縁者、誰一人にも。
その言葉に偽りはない。鬼女は慰めも何も言わなかった。だからこそ、余計に腹が立ったんだと思う。
私は歯を食いしばり、窓に爪を立てた。木枠の塗料が爪にくい込んでも、心臓が破裂しそうなくらい脈打っても、私は怒りに身を震わせた。
「どうして──っ!」
堪らず口にした。
「どうして私は何も得られないんだ!!」
言う通りにして、心を殺して、望まれるままに命まで絶った。なのに、私はその報酬も代償も、何一つとして得られやしない。
怒りは口にするだけでは収まらない。胸の奥から這い寄る破壊衝動は、私の神経に甘美に囁きかける。
もう一度、壊してしまえば楽になる、と。
鬼女は、怒りに支配される私を傍観していた。
私を恨みが支配する直前、鬼女は拍子抜けなことを聞いてきた。
「お前さぁ、自分の墓に行ったことある?」
私はその問いかけに、キョトンとした。そのまま恨みも忘れてしまった。
自分の墓なんて行くわけがない。墓なんて行かなくとも、死んだことくらい自覚出来る。
「そもそも、自分の墓の場所なんて知らねぇだろ」
鬼女はフン、と鼻を鳴らすと私の胸に鋭く伸びた爪を突き立てた。言い返せない私に鬼女は、まくし立てるように言った。
「墓は自分の最後の拠り所。恨みを慰め、悲しみを眠らせる、魂の揺りかごだ。誰にも家族との繋がりがあり、墓との繋がりがある。だがなぁ──」
「お前には、その墓との繋がりもねぇんだよ」
そう告げられて、私は何も言えなくなった。
一度だって考えたことがない。自分の墓で眠ろうとも、自分を慰めようとも、ただの一度も。
鬼女は私をさらに追い詰める。
「お前は自分だけじゃない。家族にも、何にも、関心がねぇ奴なんだよ」
私は心臓が凍ったような感覚に襲われた。
足がすくんで、動けなくなった。呼吸も忘れてしまうくらいに。
信じたくなかった。気づきたくもなかった。
私は親の言う通りに生きた。自分の本心なんて、後回しだった。自分への関心を無くしたことに自覚はあった。
だが、鬼女の言葉で思い知らされる。
家族にさえも関心が無かったなんて、考えもしなかった。
「──頭にあったのは、『親』に『褒められる』こと」
「じゃねぇよ。『自分』が『褒められる』ことだ。誰に、じゃない」
「そんな事はない! そうじゃないと、私が自分を殺した理由が無くなる!」
鬼女は私の狼狽ぶりに、深くため息をついた。そして、荒々しく私の髪の毛を鷲掴みすると、「よく聞け」と、今度は私の喉に爪を立てた。
「自由に生きてこそ、生きるって言える。誰かの望みも与えられる褒め言葉も、全ては人生の付属品。お前はそんな、たった小さなことで全てを失ったんだぞ」
私に言い返す隙も与えず、喉をつつきながら続けた。
「最後に玩具をねだったのはいつだ? 最後に帰りたいと思ったのは? もっと自分に正直でよかった。もっと自分に甘くてよかったんだ。他人なんて
「──なら、どうしろって言うんだ」
鬼女は私から手を離した。
私は乾いた心を差し出して、鬼女に問うた。
「たった一度、褒められるためだけに生き、他人に振り回されて死んだ私は、どうすればいい? 私に居場所なんてない。私に帰る場所はない」
鬼女は、私の心に触れるように言った。
「死んだお前を、支えてくれた奴は誰だ? お前を叱り、慰め、褒めてくれたのは」
私はその時、初めて願望が生まれた。その願望はとても暖かく、この世の何よりも私の心を潤していく。
私はポケットに手を入れた。指先に紙が触れた。その感触が嬉しかった。
鬼女は不敵な笑みを浮かべる。そして言った。
「願え! お前の望みは何だ!」
私は、泣きそうな目で笑った。人型の式神を握って。
きっと、彼女が出会った誰よりも強く願っただろう。
「霧の里に──帰りたい!!」
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