第15話 奏の本質

 誰もが聞いたことのある台詞だ。


『勉強しなさい』


『人に優しくしなさい』


『悪いことをしてはいけない』


『嘘をついてはいけない』


『努力を怠ってはいけない』


 誰もが頑張っている。誰もが努力を積み重ねている。

 そんなことくらい分かっている。


 私は『いい子』であるために、私なりの努力を重ねてきたつもりだ。──結局、『つもり』だったわけだが。


 自分の中に溜め込んだ親の一方的な約束。それが私の歩んだ道だ。

 それに悩まされたことなんてない。

 その約束の理由も、私には知らなくていいことだった。

 それに疑問を持ったことなんてない。


 ただの、一度も。


 ***


 私が目を覚ますと、天井が見えた。

 妙に重い体を起こすと、見慣れた殺風景な部屋にいた。

 私は布団を這い出て、窓の外を眺めた。


 薄らと霧がかった里は賑やかな日常が繰り返される。

 私はそれを、何も考えずに見つめていた。


 がらりと戸が開いた。

 振り向くと、茶碗を持った望月が目を丸くして立っていた。望月は私の傍に座ると、苔色のような汁の入った茶碗を渡してきた。


「飲め。数日寝てたからな。霊力が落ちているだろう」


 望月なりの優しさだろう。だがその汁は到底飲めるような色をしていない。千代の飯と同じくらい酷い味であることは見てすぐに分かる。


 だが私は茶椀を受け取ると、迷わずそれを飲み干した。


 全身を駆け巡るその不味さに吐き気が込み上げる。私が茶碗を落とし、床に手をつき口を押さえる。

 あの汁が喉元まで込み上げてきた時、望月は慌てて背中をさすった。


「薬だから少なからず苦いだろう。だが、あまり吐いてくれるな」


 その言葉で、私は薬らしき汁をもう一度飲み込んだ。

 あまりの不味さに咳き込みながら、私は顔を上げた。

 望月は不安そうな表情で私の顔色を窺う。


「無事か?」


 私は黙って頷いた。口を開いた瞬間に、喉に残った味がまた吐き気を引き出すと思ったからだ。

 望月は深くため息をつくと、腕を組み、不満げな顔に切り替わった。


「全く、何事も無かったからいいものを。これで妖怪に襲われたとかデミに喰われたとかだったら、大問題になっていたんだぞ。勝手にいなくなるような真似は慎め」

「······はい。分かりました」


 私は驚いた。

 自分の口から、懐かしい言葉が出てきたのだ。

 望月も驚いていた。

 私が言うはずのない言葉を聞いたからだ。


 望月は私の頬に触れた。

 私の顔をぐりぐりと回して、顔色を確認する。

 特に問題は無いと判断したのか、望月は手を離したが、まだ不思議そうだった。


「······広間に行け」


 望月がそう言うと、私の体は意思に反して立ち上がり、部屋を出ていく。私は自分の言うことを聞かない体に、怒りよりも疑問が湧いてきた。

 そしてその疑問の裏を、微かに底知れぬ感情が漂った。


 ***


 千代は二枚の札を出した。

 一枚は白い札で、もう一枚は赤い札だ。


「簡単な術さ。痛くも何ともないから安心しなァ」


 千代は札を私の頬にこすりつけると、それを私に持たせた。千代は袖から蝶々の形をした紙を出すと、まじないをかける。



禍津まがつを辿りその身を焦がせ。その先にあるものが善ならば、その身を花と化せ」



 そう唱えると、手の平に乗せた紙に息を吹きかける。ふわりと浮いた紙は花弁のように宙を漂うと、命が吹き込まれたようにヒラヒラと蝶々のように待ってみせる。


 紙の蝶々は私の前まで飛ぶと、赤い札の方に寄っていき、札の先に止まった直後、赤い札ごと焼けて消えた。

 私は残った赤い札の端を手放すと、千代はそれを拾い上げ、望月と生馬に振り返る。


「妖術にかかってんねェ。夜来ィあんた一体、奏に何をしたんだい」

「知るか。本人に聞け」


 望月がつんとして返すと、千代は小声で文句を言いながら私に向き直った。


「さぁて、夜来の話だと、奏あんた、従順になっちまったんだっけ?」

「──うん。体が言うことを聞かなくなった」


 人の言うことに逆らえない。

 望月の「飲め」「吐いてくれるな」「行け」、それら全てに従った。それだけで十分証明になる。

 生馬はオロオロしながら、私に聞いた。


「なっ、なんでそんなことになっちゃったの?」

「えぇっと、酒呑童子に会って──」

「鬼に会ったのか!」

「会ったよ」


 私は望月を出来る限り無視をして、記憶を遡る。

 酒呑童子と話をして、その時に確か、何かを見たような。

 私がうーんと唸っていると、望月は待っていられないのか、「早くしろ」と急かす。

 それにさえも、私は従ってしまう。


「鏡を見た」


 端的に思い出したことを話していく。

 鏡を持った爺。その鏡に昔の自分が映っていた。それを見たら気を失った。


 望月に言われた通り、私は早口で説明した。それが自分の意思じゃないとしても、望月は不満げだった。

 千代は望月の頭を強めに殴る。

「馬鹿だねェ」と言いながら煙管をふかし、私を腕に収める。


「奏は人の命令に従っちまうんだ! そういう妖術だって今言ったばっかりじゃないか! 何であんたはすぐ忘れるんだい!」

「わっ、忘れたわけではない! いつもの癖が──」

「いつものぉ? あんた、奏に威張り倒してんのかい!」

「い、いや、違う──」

「なーにが違うってんだい! そりゃ喧嘩して当たり前だろォさ!」


 千代は私を抱えたまま望月を怒鳴りつけた。

 私は千代の匂いを嗅ぎながら、それが終わるまで大人しく待っていた。

 お香を焚いているのか、ふんわりと漂う優しい香りに私は安堵する。

 千代は時折、私の頭を撫でたり、背中をさすったりしてくれた。

 だが、頭を撫でられることも背中をさすられることも、嫌なわけではないが、どうしても違和感を覚えた。



「奏ちゃん、その妖怪に心当たりある?」



 生馬が聞くと、私は「何となく」と頷いた。

 鏡を持った爺、と聞けば『鏡爺』を思い浮かべるであろう。だが、私はあの時鏡に映った自分を見ただけで、鏡に取り込まれたりはしなかった。


 生馬は飛び交う怒号に背をかがめ、私ににじり寄ると内緒話をするように耳に手を添えた。

 私はそれに合わせて答えた。


「────多分、『雲外鏡』だ」

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