第16話 奏の本質 2
『雲外鏡』
照魔鏡とも呼ばれ、魔物の正体を明らかにする伝説の鏡と呼ばれたなんて説もある。
今や真実なんて、噂や数多の解釈に埋もれて知る由もないが。
華のある里の喧騒は、現世現代なんかと違って、とても明るみに満ちた声で埋め尽くされる。
客引きや
──楽しそう。
だが里の民は、それを羨むことさえ許してくれない。
私が彼らから受ける視線は奇異なものを見るようで、嫌悪感ともとれる視線だ。
私は頼まれた果物を買いに、八百屋に訪れていた。
店に並ぶ品は現代と変わらない種類と量で、質も良かった。
望月から受け取ったメモを見ながら、店の奥で瓦版を読むふくよかな女に声をかけた。
「こんにちはー」
女は一切私を見なかった。
「えぇと、お富さん······?」
私が彼女の名を呼ぶと、嫌そうに片眉を上げ、私を睨みつけた。
「あんたにやる商品はないよ! 帰ってくんな!」
お富は声を荒らげると、「しっしっ」と早く出て行けと言わんばかりに手を振った。
一瞬、足がすくみ手が強ばる。私は何かを言おうとしたけれど、その口さえ僅かに動いただけで、何も紡ぐことなどなかった。
私は渋々店を出ると、祓い屋の屋敷に足を向けた。
その帰り道でさえ、嫌な視線を浴び続けた。私はまるで気にしない振りをする。
······腕をさすった。
***
屋敷に戻ると、望月が玄関を掃除していた。
望月は手ぶらの私を見ると眉間にシワを寄せた。
言わないが、やめて欲しかった。
その表情が、胸の奥底に根付いた妖術を引き出すから。
その表情が、私の見続けてきた家族の顔と同じだから。
望月はメモを回収すると、「やはり無理か」とため息をつく。
そのため息さえ、「無理か」の一言さえ、私の胸を抉るのだから、苦しいとしか言いようがない。
それでも私は言い返せなかった。
(──私が、悪いのか)
そう思わざるを得ないのだ。それが妖術だとしても、それが偽りだとしても。
「望月、ちょっと出かけてもいい?」
***
音を轟かせ、飛沫を上げ、豪快に落ちてゆく流水の見事なこと。
私は傍らの岩に腰掛けてぼぅっと、滝を見上げていた。
相変わらず綺麗な音がする。
洗練された、清らかな唄だ。
私はそれを口ずさみながら滝壺を覗き込んだ。
揺らめく水面には歪んだ自分の姿がある。
あの里にいた誰よりも濁った瞳は、薄らと残った山吹色さえも消しかけていた。
「ねぇ、人の子」
水の滴る音がして、私の横で誘惑するように白い手が伸びた。
女郎蜘蛛は私と一緒に滝を眺めていた。
お互いに顔は見ない。
「奏って名前を借りた。今はそっちで呼んで」
「名前を借りるって変な話。名は言の葉。物を物たらしめる呪詛。それを借りるなんて、あなたを縛るものがないじゃない」
「名前を思い出せないんだ。仕方ないだろう」
私は死んで一番最初に覚えた技を披露した。
目を閉じて大きさ、形、色──全てを鮮明に想像する。
自分の膝に手を乗せると、そこには想像した品が具現化されている。手に持てる物限定ではあるが、遊ぶには困らない。
私は現代の玩具を女郎蜘蛛に見せた。
彼女は宝石のような目をキラリと輝かせた。
「オセロ、やるか?」
滝の音よりも遥かに小さいはずの、碁盤と石がぶつかる音が辺りにこだまする。
女郎蜘蛛は飲み込みが早く、私の白石をすぐに黒に変えてゆく。私は現代人の意地だけで、石を打ち続けた。
「随分と、変なものにかかってんのね」
ふと、女郎蜘蛛は口を開いた。
「あ、分かるんだ」
私は興味なさげに返事をする。
「分かるわよ。私はれっきとした妖怪なのよ。
女郎蜘蛛はデミの存在を知っているらしい。
蜘蛛の足で水面をつつきながら、女郎蜘蛛は黒石を置いた。
「気分はどうなの?」
妖怪が人間に気遣うなんて馬鹿な話だ。だが、女郎蜘蛛は確かに不安げな目を私に向けた。
私は癖か妖術か、「別に何とも」なんて思っていないことを返した。
女郎蜘蛛はふぅん、と興味なさげに言った。
「──どうして、私を助けたのよ」
女郎蜘蛛は聞いた。私は女郎蜘蛛と望月が戦ったことを思い出した。
もう記憶としてはうろ覚えで、助けた理由も明確ではない。強いて言うなら──
「女郎蜘蛛がデミじゃ無かったから」
望月が探していたのは少女の声で、デミそのものでは無かったからだ。それに女郎蜘蛛は亜種妖怪とは程遠い。本物の妖怪をデミと勘違いして討伐しては、女郎蜘蛛の恨みは凄まじいものになるだろう。
女郎蜘蛛はとうとう興味を無くしたようで、しなやかな足を水につけた。
女郎蜘蛛が帰る準備をする時に、私は弱音を吐くように小声で呟いた。
女郎蜘蛛が驚いているうちに、私は最後の石を置く。
碁盤が白く染まり、私の勝ちが決まると、いそいそとオセロをしまう。
「······楽しかった。ありがとう」
私は背中を向けて女郎蜘蛛に礼を言った。
女郎蜘蛛は既に半身を滝壺に沈めていた。
女郎蜘蛛は私の背中に「忘れないでちょうだい」と声をかけた。
「あなたは優しすぎるわ。あの
──意味が分からなかった。
私は、誰かに優しくなんて出来やしないのに。
「ご忠告どうも」
私は素っ気なく返事をして滝を離れた。
私が背が遠くなる頃、女郎蜘蛛の隣に精霊が姿を現した。女郎蜘蛛は深くため息をついた。
「随分とあの娘に入れ込むな。美男にしか興味が無かったのでは?」
「そうよ。でもあの子は別。あなただってそうでしょう」
「······そうだ。誰にも知られることの無い、私の賛美歌を、私のために歌った。それだけで強い意味がある」
「そうでしょう」
女郎蜘蛛は目を伏せた。
『あなたは何も間違っていなかった』
何をしても、しなくても悪だとされた女妖怪。
正しいことをしても咎められる女郎蜘蛛を、庇う者も、寄り添う者もいなかった。
「精霊ちゃん、仲良くしましょ。一時だけでも、あの子の──奏の為に」
女郎蜘蛛を渦巻く憎しみを、たった一つの行動で晴らしてしまったのだから。
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