第9話 女郎蜘蛛の小壺
日が高く昇る。
燦々と輝く太陽に里に被さる薄い霧が反射して、真昼間なのに幻想的な世界が生まれる。
私が生きていた頃は、こんな綺麗なものを見る機会がなかった。ずっと部屋に篭もりっぱなしで、勉強机ばかりをじっと見ていたから、余計そう思えるのだろう。
その里の中を行き来する人達は、天女の羽衣のように霧の尾を引き、下駄を鳴らす。
本当に、この世にない絶景だ。······この世でもないが。
「おい、ここは止めろ! 何で払うんだ!」
──望月の怒号さえなければ、殊更美しかったろうに。
私は文机に向かい、望月から護符の書き方を教わっていた。彼に護身用に覚えていて損は無い、と言われたからだ。
しかしその護符を、何回も書き直しさせられては、とめ・はね・はらいを注意される。
小学校の先生がまだマシに見えるほど、望月は細かく文句を言ってくる。
「何でこんなに間違うんだ······」
「漢字そのものを間違うならまだしも、何でそんな重箱の隅をつつくようなトコばっか言ってくんだよ」
「それが基本だろ」
「細かすぎるわ。こっちはまだ昨日の夕飯の影響が残ってんのに」
言い争いになりかけて、私はふいに昨夜のことを思い出した。そして反射的に口に手を当て、背中を丸めた。
もう体内に残っていないはずの千代の夕飯が、喉にまで込み上げてくる。
ただの焼き魚だった。
ただの味噌汁だった。
なんてことない、質素な夕飯だったのに。
この世の命の恨みを味わうような、激的な不味さだった。
焦げていたのもある。味噌を入れすぎたのもある。だがどう考えても、どう調理してもその味にはならないであろう味がしていた。
望月に、千代の料理は根本から大雑把だ、とは聞いていたが、あの料理を口にして『大雑把』の一言で済ませられる方がおかしい。
私はあの味を思い出して机に伏せた。
望月は同情するように私の背中をさする。
「全部食わなくて良かったんだぞ」
「
「でもあれ完食したの、奏ちゃんくらいだよ〜」
いつの間にか生馬が隣にいた。
お茶をそっと差し出して、望月と一緒に私の背をさすった。生馬は床に散らばった護符を拾い上げ、感心したように声を零した。
「よく出来てるじゃない。覚えるの早いね」
「誰だって出来るよ。覚えるのくらい」
生馬は床を片付け、使えるものと使えないものに護符を分けると、「こっちは持ってな」と私に返した。望月が言うほど、使えない札なんてなかった。
「そうだ夜来、昨日二人が持って帰ってきた小壺なんだけど。中に入ってるのは声で間違いはないよ。でもね──」
生馬は袖から女郎蜘蛛から返してもらった小壺を出すと、望月に渡した。望月はじっと小壺を眺める。
生馬は言いにくそうに頬を掻き、
「妖術で封をしてるみたいでさ、何しても開かないんだ」
「あの蜘蛛女!!」
望月は小壺を握りつぶしそうな勢いで怒鳴った。
今度こそ地獄送りにしてやると息巻いて、
私はよく分かっていないものの、女郎蜘蛛が殺されるということだけ理解して、慌てて望月の後を追いかけた。
「待って望月! ちゃんと開ける方法あるから!」
「お前は開けられるのか!?」
「開け方知らない。から多分無理」
「ほら見ろ! やっぱり滅してやれば良かった!」
「ストップ! 私が何とかするからそれ寄越せ!」
私は乱暴に小壺を奪い取ると、やはり何も考えずに屋敷を飛び出した。
***
誰の声かも、どうやって蓋を開けるかも分からないのに、私はふらふらと里の中を彷徨う。
特に聞きもしないで飛び出したことを、内心後悔しながら大通りを歩いていた。
さすがに「この声誰のですか」なんて聞くことも出来ず、私は他人の顔を確認するように歩き回った。
どこを見ても、誰も見ても、付きまとうのは奇異なものを見る目と、悪意に満ちた言葉ばかり。
何もしていないのに、後ろ指を差されるような状況に、私は少し気が重くなる。
同時に、心のどこかで現状を受け入れているような節があった。
(──どうせ、私が悪いんだ)
私は自分に言い聞かせるようにそう思った。
私は何となく大通りを外れ、長屋のある細い通りを歩いた。綺麗で豪勢な大通りに比べ、この細道は古い家が並んでいる。
現代でも見る景色に親近感が沸いた。
ふと子供の騒ぐ声が聞こえた。遊んでいるのだろうか。しかし、その近くからすすり泣く声もした。
私は隠れてその声の元を探した。
長屋にある井戸の周りで、五人の男の子が何かを囲って騒ぎ立てていた。
地面は水浸しで桶が乱雑に転がっていた。男の子たちの手は泥にまみれていて、泥遊びでもしたかのようだ。
男の子の円の中には女の子がいた。
うずくまって、声を押し殺して泣いていた。
「やーい! お化けおんな!」
「お前だけみんなと違って変なのー!」
全員、小学生くらいの歳だ。こういう馬鹿騒ぎが楽しい頃合いだろう。だが女の子一人を寄って集っていじめるのは、人としてどうなのだろうか。
そう思っても、私は手を貸しにはいかなかった。
私が陰から見ている間にも、女の子は殴れたり押されたりといじめられる。
井戸から汲んだ水をかけられたり、泥を投げられたりしても、女の子はじっと耐え忍んでいた。
それでも私は助けにいかなかった。
「──誰も助けちゃくれないんだ。自分を助けるのは自分だけ。他人に頼ったらいけないんだ」
彼女を突き放すように言ったそれは、自分に言っているようにも聞こえた。弱かった私に、縋るのをやめさせた時のように。
自分を律するように、自分の痛みを無かったことにするために──
「喉乾いたろ! そら飲めよ!」
私はハッとしていじめの様子に目を見開いた。
桶に溜めた水に、女の子の顔が押し込められていた。二人がかりでもがく腕を押さえ、一人が頭を固定している。
水面は激しく揺れる。皆は面白そうに笑っている。誰も、助けてはくれない。
『助けて 命が奪われる前に
救って 人が道を踏み外す前に』
聴こえてくる水の音は、悲鳴を上げるように唄う。
私は胸の鼓動が強く聞こえた。息が荒れてくる。体温も上がり出した。
目の奥からじわじわと押し寄せてくる熱い感情が、私の体を突き動かす。それは、正義ではない。
······正義なんかではない。
どうして、どうして──
「お前らごときが───!」
***
「止めろ! 奏!」
突然後ろから腕を引っ張られた。振り返ると、そこに望月がいた。
私はそこでようやく、我を取り戻した。
望月は汗まみれの顔で、驚いたような怯えているような表情で、私を見ていた。私は望月の表情の意味を汲み取れなかった。
「──お前がやったんだ」
私はそう言われて、辺りを見回した。
生馬が、井戸から子供を救出している。井戸から出てくる四人はみんな顔が腫れ上がり、額やら口やらから血が流れていた。
残りの一人はどこに行ったのか。確か主犯格の子供だったはず。
仲間を置いて逃げたのか? いや、こんなことになっているのなら、怯えて動けなくなっているはず。
探す必要はなかった。その子供は、私の、目の前にいた。
井戸に落ちた誰よりもひどい怪我を負っていた。
殴打による傷とアザではもの足りず、歯は折れて口の中は血だらけ。足の骨も折れているようだった。逃げたくても逃げられなかっただろう。
彼は腹を抱えてうずくまり、苦しそうに浅く息をする。
すすり泣いていた。泣くのも痛いようで、
通路を塞ぐ千代の後ろに隠れていたあの女の子は、私を見て、とても怯えていた。
千代は女の子の頭を撫でながら、「呼びに来てくれたんだ」と私に言った。
「やり過ぎじゃあないか。そりゃあ悪いことしてたし、許されないことだろうけどさァ。あんた皆殺しにでもするつもりだったのかい?」
「元々死んでいる。霊体は感情の歯止めが効かん。怒りに支配されただけだろう。まだ慣れてないんだ。······慣れてないだけだ」
「でもさぁ、ここまでやった人は僕初めて見たよ。おっかなかったぁ。子供の悲鳴が途切れるまでずぅっと、奏ちゃんは殴り続けてたんだよ?」
私は自分の手を見た。
子供の返り血で染まった拳。
私は井戸水で手を洗うと、ポケットの小壺を出して望月に言った。
「声取られたって人、誰なの?」
望月は呆れたような、これまた驚いたような表情をした。生馬も千代も、つられて似たような表情をする。
千代が後ろに隠れた女の子の背中を叩くと、私はその子に近づいた。
私が一歩進む度に、世紀末に怯えるような表情をする女の子は千代に一層しがみつく。
私は彼女の前でしゃがむと、小壺の蓋を「ガポンッ!」と開けた。
飴玉のような球体が一つ入っていて、女の子はそれを手に取ると口の中で転がした。
「えっと······しばらくすれば、また喋れるようになるよ。お大事にぃ······?」
生馬はそう言って、女の子を家まで送っていった。
私は壺の蓋を閉じると、何事も無かったかのように屋敷に向かって歩いていった。
望月は煙管をふかす千代をその場に残して、私を追いかけてきた。
「おい、何も言うことは無いのか?」
望月は恐る恐る聞いてきた。
私は首を傾げた。
誰よりも濁った山吹色の瞳が私を見つめていた。
「何か言うことがあったのか?」
私がそう問い返すと、望月は返答に困ってしまった。私は構わず通りを歩く。人々の賑わいが、遅れて聞こえてきた。
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