第10話 屋根の上

 中学の時、私は作文で校内一位を取った。


 今度こそ褒めてもらえると思った。


 勉強でどうしても敵わないなら、別のことで認めてもらおう。


 私は自信作のそれを、両親に見せた。



 ──誰も褒めてはくれなかった。



『そんなことを自慢してどうするの』


『勉強が出来なければ意味が無いだろう』


 私の自信は、見事に砕かれてしまった。


 それからしばらくすると、小学生の妹が両親に褒められていた。


 作文だった。校内で一番を取ったらしい。


 両親は妹をそれはそれは喜ばしく思っているようで、



『この子には才能がある!』



 と言っていた。


 離れた廊下から、嬉しそうな妹の姿を眺めていた。



 ──妹は、才能があるから褒められる。



 ならば、才能のない私はどうしたら褒められるのか。


 私は、羨ましくて仕方なかった。


 ***


 ──眠れなかった。

 私は月光を浴びながら、布団の中を転がる。


 布団以外に何も無い部屋で、私は天井の木目を数えた。

 それで眠れるとも思っていない。

 気が紛れるとも思っていない。


 それでも何かやっていないと、昼間のことを思い出してしまうのだ。怒りがまだ燻っている。歯がむずむずして、何かを噛みたい衝動に駆られる。腕や足に必要ないくらい力が湧いて、今すぐにでも暴れたくなる。

 それが出来ないのは、私の自制心の強さと、単に望月に怒られた後が面倒くさいからだ。


 私は重い体を起こした。

 ひんやりとした風が、肩を撫でた。

 顔を覆い、深く、深いため息をつく。


「──ちょっと、風に当たりたい」


 でも出歩いたらきっと、望月がうるさい。それに里を歩き回っては、里の人に迷惑だろう。


 だが外には出たい。


 庭をうろつけば望月に見つかるし、廊下を歩き回れば······やはり望月に見つかる。

 多分怒鳴る。そしてみんな起きる。


「じゃあどこに行けば良いんだよ。チッ、あのクソ坊主······」


 ふと思い出した。

 今日、望月に屋敷の案内をされた時に、二階に物置部屋を見つけた。蜘蛛の巣だらけの埃だらけだった。かなり前から使われていないのだろう。でも大きな窓がついていた。

 そこならきっと、存分に風を浴びられる。


 私はそっと部屋を抜け出すと、階段を忍び足で上がる。二階の仲間の部屋の前を音を立てないように歩き、一番奥の物置部屋に滑り込んだ。

 昼に見た時同様、埃だらけの部屋だ。戸の向かいの壁には、開き戸の蝶番が壊れ、開きっぱなしの窓がある。

 私はそこから顔をのぞかせた。目の前には黒い林が広がり、景色が良いとは言えなかった。でも私の望むとおりの風を浴びられた。


「まぁ、及第点──ん?」


 ふと窓の横に梯子はしごを見つけた。私が梯子の先を見上げると、それは屋根に繋がっているようだった。


 ──ちょうどいい。少し外に出たかったんだ。


 私はいそいそと梯子を登った。

 ギシギシと音を立てるのには不安はあったが、無事に屋根まで登ると、私は「わぁ」と声を漏らす。


 ずらりと並ぶ家々に青白い月光が差し、霧の白が薄らと伸びて、淡い寒色系の幻想世界を生み出している。

 しかもそれを、この里で一番高い所から見下ろすのだ。これを絶景と言わずして何になる。


 私は藍色の瓦に腰掛けた。

 冷たい息を、風が奪ってゆく。

 私は膝を抱えて時間の許す限り、その絶景を目に焼き付けた。

 瞳を照らす、欠けゆく月は私によく似ていると思う。


「ここにいたのか」


 低い声が背中にぶつかる。

 気が重いまま振り向くと、屋根にしがみついて何とか登ろうとする望月の姿があった。


「無理すんな年寄り」

「馬鹿言え。享年三十路だ。体力なら十分にある」

「江戸生まれのクセに」


 怒鳴ると思っていた望月は案外何も言わなくて、私の隣にどかっと座ると、足を伸ばしてだらけた姿を見せる。


「······いい景色だ。数百年、ここに住み続けたがこんなに良い場所は初めて知った」

「なんだ。知ってるもんだと思ってた。意外と見つけるの、早かったし」

「いいや。寝る前の読書中に、廊下を忍ぶ足音が聞こえたから、何となく来てみただけだ」

「カタブツが夜更かしかよ。九時に寝てろ」

「何時に寝ようと、別にいいだろう。現代の輩も夜遅くまで起きているんだから」


 望月は息を吐き出すと、風を仰ぐように目を閉じた。

 がっしりとした体格に整った顔立ちは、きっと生きていれば女に困らないであろう格好良さがある。

 黙っていれば美人、なんて皮肉はよく聞くが、望月はまさにそれに当てはまる。



「──昼の一件だが、どうしてあんな事をしたんだ?」



 望月は背を丸め、私と目線を合わせた。

 私はあまり答えたくなくて、望月から目を逸らした。望月は私のそんな態度にも、怒ったりはしなかった。


「······この霧の里はな、『恨み』を持った人間が集う霊域だ。よく『行き場をなくした者たちの溜まり場』と言われる。どこにも行けない中途半端な奴らだから、荒れやすくてな。昼にあったような、行き過ぎたいじめもかなりあるんだ。だから、お前がとった行動をとがめる気は無い。それに、あの娘を助けるためにやった事だ。俺が強く叱ることは出来ない」



 ──『恨み』かぁ。



 もし本当にそうならば、千代も生馬も、望月も。

 皆誰かを、何かを恨んだという事だろうか。明るく賑やかに過ごす里の人も、誰かを恨んで死んだのか。

 明るい里に隠れた黒い感情は、私と馴染みのあるものだった。なのに、私はそこからもはずれ者にされる。


 望月は私がどうして子供を半殺し──もう死んでいるが──にしたのかを聞きたいようだった。

 私はその答えをせずに一つ、死ぬ数ヶ月前の話をした。


「孤児院の子を、一回だけ助けたことがあるんだ」


 私は高校のボランティア活動で、地元の孤児院を訪ねたことがあった。

 そこの職員は優しく、子供たちも明るくて元気な子ばかりだった。

 私と一緒に来た生徒は、職員に従って子供たちと遊んだが、私は自分の耳に従って孤児院の奥に閉じ込められた子共二人と遊んでいた。


 職員も生徒も、私を気味悪がっていたが、私は全く気にしなかった。

 職員に何と言われようが、学校の評価さえ入ればよかった。それに、その子達は不思議なを持っていた。

 私は人間の音は聴こえない。人間に唄は無い。


 だが、その子達からは時折、木琴のような音が雨露のように零れるのだ。

 それが面白くて、たった三日だが楽しく過ごさせてもらった。


「でもあの子たち、職員から卑劣ひれつな扱いされてたらしくて」


 三日目の夕方、高校の生徒たちが帰った後で、私は一人、ホールの片付けをしていた。

 片付けて帰れと言われたのに、誰一人として片付けない遊具を私がせっせと片付けていると、微かに水の音がした。

 気のせいかと思った。けれど、それが荒波の唄に似ているものだから、妙な胸騒ぎがした。


 私は水音を辿るように厨房に向かった。そこに着くと、低い怒鳴り声と苦しそうな声と、泣きわめく声がした。




『助けて───!!』




 私は膝に顔を埋めた。続きを言うのが躊躇ためらわれる。

 


「あとはお察しの通り。半殺しとまではいかないけど、職員に飛び蹴りをかました挙句、子供を引き離して鍋の形が変わるまで殴ってやった」


 結果、評価は上がるどころかゼロまで下がり、孤児院から苦情が来るわ、親を呼び出されるわの大騒ぎにまでなってしまった。

 良い成績のお陰で、停学にも退学にもならなかったが、私は両親に口を聞いてもらえなくなった。


「──弟のように思ってたんだ。忌み嫌われる理由が分かんないくらい明るくて、好奇心旺盛で、頭良くてさぁ。私を姉のように慕ってくれた」


 あの子たちは私を『姉ちゃん』と呼んでくれた。

 あの子たちは私の前で笑ってくれた。

 私が彼らを守る理由には十分だった。


 後悔はしていない。

 確か五歳だといっていたか。あんな幼い子供が私の心を揺さぶったのだ。

 覚えていたっていいだろう。あの女の子が、彼らと重なって見えたって、いいだろうが。


「──そうか」


 望月は納得すると、私を自分の胸に引き寄せた。




「──偉いぞ」




 望月は一言だけ言った。

 きっと「やり過ぎだった」くらいは、言いたかったに違いない。

 きっと「なんて事をしでかしたんだ」と言って、説教したかったに違いない。

 だが何も言わなかった。


 望月の胸は冷たく、鈍い温かさがあった。

 拍動は感じるのに、心臓の音が聞こえない。

 これが『死』なのかと受け入れるには、優しすぎるものだった。


「私、やり過ぎたよな」

「少しな。だが、俺も昔似たようなやったことがある。和尚様は優しく許してくれた」

「へぇ望月が? そんなことしそうにないな」

「いやいや、俺も若かったんだ。昔、寺に来た男がいたんだが、それはそれは和尚様に無礼な態度を取るもんだ。『お前は徳が高いと聞くが、こんな老いぼれが偉いとは思えん』とな。

 俺は何度も注意したんだが、男は子供の俺に注意されるのが嫌なもんで、俺を殴ろうとしたんだ。だがそれを和尚様が止めてくださったのだ。だが男は怒りの行き場をなくしただけ。ついにあいつは和尚様に乱暴を働いた」

「それで奴はどうなった?」


「みぞおちを蹴り飛ばして、石段の下に突き落としてやった。骨を折ったつもりだったが、肩を外しただけなのが残念で仕方ないがな」


 私は望月とゲラゲラ笑いながら、屋根の上で会話に花を咲かせた。

 いつの間にか空はしらみ始め、藍色の空が紫色を帯びてくる。

 私は望月にもたれて眠っていた。

 望月は私の肩を抱き、泣きそうな、慈しむような眼差しで私の名前を呼んだ。


 朝日が昇ると同時に、望月は一筋の涙を流した。


「────」


 望月は何かを呟いたが、その言葉を誰も聞くことは無かった。

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