第8話 朝日野『』

 結局、私は霧の里に戻ってきてしまった。

 里の人間は私をちらりと見やっては、隠れて笑い、私をあざけっていた。

 それも仕方ない。なんせ私は、長袖のパーカーに短パンで、ヨレヨレの靴下だけの気楽な服装をしている。靴なんて履いてないし。現役の女子高生が見たら卒倒するような、センスの欠片もない格好だ。


 私は気にしない振りを決め込むが、一歩前に進む度、髪が左右に揺れる度に気が重くなってゆく。


 ただでさえ名前が無くて困っているのに。

 ただでさえ知らない里に連れてこられたのに。


 何故笑われないといけないのか。顔も名前も知らない人間に。

 何故周りと違うというだけで、優劣をつけられなければならないのか。



「おい小娘」



 苛立ちが募る私を、優しく抑える声がした。望月は周囲を気にして、こそっと懐に手を入れる。隠すように、私に竹の葉の小包みを突き出した。

 ぶっきらぼうに渡されたそれを、私はおずおずと受け取ると、中から炭のいい匂いがした。

 そっと包みを開けると、こんがりときつね色に焼けたししゃもが入っていた。


「さっきそこで買った。今日の夕飯は、千代の番だからな。それ食って腹の足しにしろ。あいつの飯は大声で言えないが············不味い」


 望月はこそっと私に言ったが、周りの人間にはバレているらしい。「今日はお千代さんの番みたい」と内緒話が聞こえてくる。


 望月はムスッとして、人を押しのけるように通りを歩く。その姿に人の波が勝手に引けていく。

 私もあれくらい、堂々としてみたい。


 私はししゃもを一つつまんだ。

 炭火焼きの旨味と塩のしょっぱさが身に染みる。口の中に広がる香ばしい匂いが鼻腔を突き、ふんわりと喉を落ちていく。表面のパリパリ感と、中のふっくらとした食感が舌先を喜ばせた。


 私は空の包みをパーカーのポケットにしまう。

 私は何となく風を嗅いだ。風はクスクスと笑っている。私の顔を撫でた風が教えてくれる。望月からも、ししゃもの匂いがした。


 ***


「おう、お帰りィ。今日の夕飯、まだ作ってないんだ。もうちょっと待ってくれよォ」

「助かった······」

「あん? なんか言ったかい?」

「いいや。ゆっくり準備してくれ」


 望月は千代を避けるように屋敷に上がるが、千代は望月の後ろを、着物の裾を引きずってついていく。「どういう意味だよォ」としつこく尋ねる千代の前で、望月は「しまった」と顔が青ざめる。

 私は望月に見えないように笑った。


「あっ、あんたも帰ってきたのかい。昨夜、突然居なくなったってェ? 夜来のやつ、すんごい心配してたんだよ。うるさいったらなかったけど」

「───心配?」

「ああそうさ。あたしゃすぐ見つかるって何っ回も言ったんだけどさァ、あのデカブツったらもー、見てるこっちが不安になる慌てっぷりで──」

「千代、やっぱり腹が減った。夕飯は任せたぞ」

「なんだい! 恥ずかしくぁないって!」

「うるさい。早く行け」


 千代は私を見ると、バチッとウインクをして台所に向かった。望月は咳払いをすると、私を睨み下ろし、指を差して言った。


「今夜はどこにも行くんじゃないぞ。また夜中に居なくなって、面倒かけられるのはごめんだ。いい歳なんだから、周りに迷惑かけるんじゃないぞ」

「今のところ、迷惑かけてたのは望月じゃ······」

「俺は迷惑かけていない! 俺にっ! 面倒かけるなと言っているんだ!」


 望月は私を怒鳴ると、大広間の戸を開けた。

 そして、私をだだっ広い空間に座らせると、望月は私の前に座って胡座をかく。


 望月は腕を組み、まるで説教をするような雰囲気を出すと、懐から一枚の紙を私の前に置いた。


「······成仏させられない以上、俺はお前をここに連れてきた責任がある。だから、お前が名前を思い出すまで、お前は俺が預かることにする」


 あちこちでまた破壊行動されたら敵わん! と望月は立腹だ。私は手前に置かれた紙を見つめた。

 その紙には何も書かれていなかった。


「お前に名前が無いと不便だからな。呼び名がなければ物を縛れん。かといって、今すぐ名前を思い出せといっても無理な話だろう」


 名前が無くとも、私には『朝日野』という苗字がある。名前しかなかった昔と違って、現代は皆、苗字があるのだからそっちで呼べばいい。

 だが、望月にそれを説明しても絶対に首を縦には振らなかった。


 望月の言い分だと、


『霧の里で苗字を名乗ることはほとんど無い』

『身分の高い者限定ではあるが、同じ苗字はよくあるから混同しないようにするため』


 という理由で苗字を呼びたくはないらしい。

 しかし妙にソワソワとして落ち着きがない。

 望月は咳払いをすると、目から怒りの色を消した。私はその瞳に驚いた。


「何より、お前とちゃんと信頼関係を築きたい」


 私に向けられた、歪みのない言葉がちゃんと瞳に光を灯しているのだ。こんなにも真っ直ぐな目は、今まで一度も見たことがない。

 望月は手前の紙に手を置くと、念じるように目を閉じた。赤い光が手の下から放たれたかと思うと、その紙に墨で文字が書かれていた。


「一時の名前だ。ここにいる間の······まぁ、戒名だとでも思え。思い出したら捨てるものだし」


 私は紙を手に取った。望月は胡座から正座に正す。

 望月はその名の意味を話した。

 私はその文字から目が離せなかった。


「昨日の件、そして滝での一件······お前の歌声は自然をも動かす。それはさながら、生ける楽器のようだった。お前に相応しいと思う」


 望月はそう言うと、私が見入る紙の端を叩いた。

 私はその文字を呟いた。




「───────『かなで』」




 望月はフンと鼻を鳴らした。

 私はその名前に心臓が強く脈打った。

 本能的に理解出来る、自分の名前じゃないという違和感と、同じく本能的に感じるその懐かしさに、私は胸が押し潰されそうだった。


 私がその名前を、自分で言ったからかもしれない。それでも、「ああ、私だ」と実感出来た。

 ちょうどその時、生馬がお茶と菓子を持って広間に入ってきた。


「あっおかえりぃ。お菓子持ってきたよ。今日は姐さんの料理番だから、ちょっとでもお腹を満たしておかないと死んじゃうからね」

「もう死んでるのに」

「食べればわかるよ。夜来の分はこっちね。はい······えーっと」


 生馬は私を呼ぼうとして止まった。

 生馬は悩ましげに首を傾げる。私は今しがた名前を言おうとしたが、上手く言い出せなかった。


「奏だ。そう呼んでやってくれ」


 望月は湯気の立つお茶を啜った。生馬は表情を明るくして「奏ちゃん!」と私を呼んだ。

 私は少しくすぐったい思いをしつつ、生馬から茶菓子を受け取る。


 私はちらりと望月を見たが、望月はなに食わぬ顔で菓子を頬張った。

 私は温かいお茶を一口飲んだ。

 それはほろ苦くも、優しい味がした。

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