第26話 月夜の初陣 2
情念、嫉妬、愛憎、そして執着。
雲外鏡から感じ取れるものは大体それと同じだ。
千代の美しさに魅入るあまり、固執したその感情が未練となり、霊体となったせいで渇望に変わる。
欲望の悪循環に吐き気がする。
泥沼よりも深いその執着は、きっと一縷の光もないような濃い闇に包まれているのだろう。
誰だってその闇には触れたくない。絡め取られた人を助ける者も、またいないだろう。
──普通の人ならば。
「うらぁっ!」
私の回し蹴りが雲外鏡の首を直撃する。
倒れゆく雲外鏡の脇腹を蹴り上げて、空に放ってやる。宙を舞う奴に向かって、望月は札を投げると「爆!」と叫んで爆発させる。
空に赤い花を咲かせて雲外鏡は燃えカスのように落ちた。それで終わればいいのだが、亜種妖怪とはいえ霊体に変わりはない。死なないのだ。
そして妖怪に変じるくらいには、他の霊体を喰らい続けている。
つまり──奴はまだ倒れない。
残り少ない髪の毛をチリチリと焦がし、雲外鏡は私たちを睨んでくる。
雲外鏡は持っていた全身鏡を私に向けた。生馬がサッと前に飛び出すと、護符を広げ、呪詛返しかかる。
「温情の豊かなる土よ
我らに這い寄る呪いを包み込み給え」
雲外鏡の鏡に映ったのは、かつての私ではない。そこに私がいるはずがない。
だが私はその中に人を見た。見慣れた人だ。
派手な着物に対し、素朴な化粧。いつもふかしている煙管ではなく、千日紅の簪を胸に押し抱いている。
雲外鏡は憎たらしそうに生馬を睨んだ。
私は望月に視線を送る。
何も言っていない。何も言わなかったのに、望月の表情はみるみるうちに憤怒の色に染まってゆく。
どこからともなく錫杖を出すと、その怒りをぶつけるように駆け出した。
鏡を傷つけぬよう、雲外鏡だけを引き剥がすよう、望月は錫杖をシャンと一つ鳴らし──
──錫杖で鏡を押さえながら飛び蹴りをかました。
見事、雲外鏡だけが弾き飛ばされ、鏡がこちらに手に入る。私は鏡の中に手を伸ばした。
だが、ガラスの障壁に阻まれ、私はその手を伸ばせない。
まさかこのままなのだろうか。
まさか助けられないなんてことになるのだろうか。
脳裏をよぎった不安が私の思考を奪っていく。
生馬も鏡にいくつか呪文を唱えるが、どれも効果が無く項垂れた。
私は呆然として、その場に座り込んだ。
望月は雲外鏡を強かに殴り続ける。
雲外鏡も新たな鏡を出すと、望月に妖術をかけようとした。望月は雲外鏡を引き付けながら私を急かした。
「千代を助け出してくれ! 早く!」
だが千代が自力で動けない上に、生馬の術でも呪いが解けないのだ。その事実を前に、私に一体何が出来るというのか。
「奏ちゃん、大丈夫だよ」
生馬が私の肩をぽんと叩く。悔しげな笑みを浮かべて、私に言った。
「君は、君自身が知らない力を持ってる。それを、どの場面で、どう使うかも知ってる。だから、僕に出来ないことも奏ちゃんなら出来るから」
生馬は鏡の向こうの千代に手を添えた。
慕うような、守るような瞳で千代を見つめていた。そして縋るような目で、私の背中を押した。
「出来ないって口にした瞬間、人は自分に枷をはめる。自分を狭い檻に入れないで。僕は、僕にないものを持ってるのに使わない、奏ちゃんが憎いよ」
私はその言葉に奮起した。
持てるものは使ってこそ。その生馬の言い分には同意するところがあった。
「ありがとう、生馬さん」
「生馬でいいよ。年代こそ違うけど、歳は一緒なんだ」
「意外だ。一つ上くらいには思ってたよ」
生馬は笑って、望月の応援に行った。私は彼の背中を見つめ、「そっか」と呟いた。
──怯えなくていいのか。
私は鏡に額をつけた。そして耳を澄ませ、音を手繰り寄せる。
鏡からは不快な音ばかりが聴こえた。
これが正しいかなんて分からない。
これで助けられるなんて確証はない。
私は祓い屋の一員ではないから、ちゃんとした修行も積んでいないし、得た知識は頭にばかり詰まって体に染み込んでいない。
でも、それが何もしない言い訳にはならない。
鏡の奥へと集中していくと、微かに綺麗な音が聴こえた。清らかで、大胆不敵な音だ。その音を拾うと、私は千代に語りかけた。
「千代さん、起きて。あなたはここにいるべきじゃない」
千代は頑なに目を閉じている。
「あなたがいるべきは窮屈な場所じゃない。自由に、堂々と出来る場所。それがあなたの居場所だ」
千代は頑なに目を閉じている。
「吉原でも、あなたは制限付きで自由を貫いた。誰に何を言われても、あなたには何ら関係ない。誰もが窮屈な思いをする中で、あなたはあなたでいられた」
千代は頑なに目を閉じている。
「千日紅の花言葉。あなた想い人から贈られたそれは、『不朽』と『不滅』、そして──」
──『枯れぬ愛情』
千代の瞼がぴくりと動いた。
私は鏡に手を伸ばした。今度は、鏡の表面に波紋が立ち、中に入ることが出来た。私の手は千代の手を掴む。
「今こそ昔の名を捨てよう。高風──いや、
『────そうだねェ』
千代がそう言った気がした。
私が千代を引っ張り出すと、鏡は音を立てて派手に割れた。生馬が跳ねて喜ぶ横で、望月はふん、と鼻を鳴らした。だが嬉しそうな雰囲気があった。
私は駆け寄ってきた生馬に千代を託した。
「ありがとう。奏ちゃん」
「大事な人なんだろ。ちゃんと守っててよ」
「うん。姐さんは僕らの家族だから。僕が守ってあげなくちゃ。じゃないと、怒られちゃうよ」
生馬はそう零すと、護符を宙に並べて結界を張る。
私はふぅん、と適当な相槌を打って深呼吸した。
望月は息を切らしながら雲外鏡と攻防戦を繰り広げる。錫杖捌きも段々と遅くなってきていた。
──亜種は、祓い屋の術をもって退治出来る。
本の最初に書かれたそれは、霊力という、人間が古来から受け継いできた第六感を持つ霊体にのみ語りかける一文だ。事実、里には霊力を持たない幽霊が多い。だからこそ、その一文は読む者への頼み事なのだ。
だが、望月や生馬が時間をかけても退治出来ないなら、それは普通の術では無理なのだ。
私はあの巻物の内容を思い出した。
条件さえ満たせば出来る技が一つあった。それは、私のために用意されているかのような技だ。
私は目を閉じた。それだけで出来る。
走馬灯のように駆け巡っていく記憶が、私の体の芯を満たしていく。
私の胸が高鳴る。気持ちが高揚する。
思い出せば思い出すほどに募っていく恨みが、私に力を与えた。
「紅く燃ゆる空 灼熱の大地
悪しきを罰する地獄の門よ 開門せよ
身の毛もよだつ地獄の呪詛
魂を繋いで引きずり込め」
私は溜め込んだ恨みを吐き出しながら叫んだ。
その叫びに共鳴するように、地の底から這って上がるような低い音が聞こえる。
空に火柱が立った。
何よりも赤い、純粋な赤だった。
そして赤と黒、二色の炎の装飾が施された厳かな扉が現れる。
望月は咄嗟に生馬と千代を守るように結界を張った。
私は一人、雲外鏡に気味の悪い笑みを向けた。フキノトウの花を差し出して。
「寂しく死ねよ。クソッタレ」
───『処罰は行わなければならない』
地獄の門が開き、手招くような炎の中から鎖が伸びる。雲外鏡に絡みつくと、目にも留まらぬ速さで地獄に引き込んだ。
地獄の鎖は望月たちにも襲いかかる。
結界を鞭のように叩き、望月らを引き込もうとするが、結界が壊れないと知るや否や、鎖はさっさと地獄へと戻っていった。
扉が怒るような大きな音で閉まると、望月と生馬は安心して結界を解いた。
「あー、びっくりした。あんなことよく出来たねぇ」
生馬は力が抜けたように息をつくと、まだ目を覚まさない千代を背負って立ち上がった。
望月はふぅ、と額の汗を拭うと、私を睨みつけた。私はそれを、呆れた笑みで受け入れる。
「危険なことをするな馬鹿者」
「はいはい、すみませんね」
望月はまだ小言を言おうとしたが、それ以上は出てこなかった。不機嫌そうに私に背を向けると、望月は「お前にしてはよくやった」と言った。
──どうせなら、正面を向いて言って欲しかった。
二人が公園を去ろうとする中、私は一人留まっていた。
生馬は公園を出たが、望月はその場から動かない私に振り返った。
「どうした? 早く来い。里に帰るぞ」
──私に帰る場所はない。
「おい、具合でも悪いのか?」
──禁忌の術を使うとき、私は何を代償にしても構わないと誓った。それは今でも変わらない。
「奏、大丈夫か? 歩けるか?」
──地獄の門を開く。その術は、大きな犠牲が伴う。私にとっては、救済だが。
望月は、目を見開いた。
私は背中越しに痛いほどの熱を感じた。
髪が揺れる。望月の姿が明るくなる。地面や望月を色付ける純粋な赤が、私に対価を求める。
······地獄の門が、また開いていた。
金属音が聞こえた。
熱を帯びた鎖が、私に巻きついた。
鎖はじりじりと、私を地獄へと引きずっていく。
私は抗う気がなかった。抗おうとしていたのは望月の方だった。
「よせ、奏」
「喜べ、望月」
私は最上の笑顔を、望月に向けた。
やっと私は、自分の居場所に辿り着ける。その嬉しさが込み上げていた。
「私はあの世に逝けるんだぞ」
望月が駆け出すと同時に、私は地獄に引きずり込まれた。引きずられる反動で前に出た腕を、望月は必死に掴もうとした。
だが、門から吹き出した炎が望月の手を阻み、私から遠ざけた。『お前に用はない』と言わんばかりに。
望月は負けじと手を伸ばした。あと少しで指先が触れる。その瞬間に、地獄の門は閉じてしまった。
望月は触れることのなかった自分の手をじっと見つめ、悔しさを地面に叩きつける。
そして、その魂が枯れるまで叫び続けた。
夜にこだまする望月の声は、その身が裂けるような嘆きに溢れていた。
私がそれを知るのは、かなり先のことになる。
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