第18話 千代と高風

 その日の夜から、千代の様子はおかしかった。

 一日一本だと言っていた酒の数が増え、望月や生馬とも距離を置き始めた。


 それは目に見える変化では無いかもしれない。皆が気づくには時間のかかる小さなものだ。

 私は知らない振りをして、自分の妖術を解く方法を探し続けた。


 望月に許可を得て書庫の本を読み漁ったり、浄蓮の滝の水に身体を浸して浄化を促したりした。

 望月も私に抗う術を身につけさせようと式神の使い方や護符の応用を指導する。


 式神も護符も、全く使えないまま時間だけが過ぎていった。




「何をどうしたらいいんだか」


 練習用の式神に念を込めながら私はぼやいた。

 満月の霧の里は朧気な光が包み込む、神秘的な世界が広がっていた。


 私が空に放った式神は、上手くいけば鷹に姿を変えるのだが、ひらひらと風に舞って落ちるだけ。

 何度やっても結果は変わらない。

 草に腰を下ろし、集中して疲れた体を空にかざすと、手のひらは透けて向こうの霧が見えるだけだった。


「全然ダメじゃん」


 私はため息をついて式神を拾う。

 不貞腐れて式神を的に貼りつけると、私は屋敷に戻る。


 ふと三味線の音が聞こえた。

 震える弦の強く優しい音色は静かに響き渡る。一音一音が命を持って風と戯れ空を駆けた。

 それはとても優美で、とても繊細な音色だった。


 私は三味線の音に誘われるように階段を上る。

 物置からハシゴに手を伸ばし、屋根へと上がった。


 綺麗だった。

 三味の白と、艷めく髪の黒が月明かりに輝く。色鮮やか着物は霧の中でもはっきりと見えた。


 風がさらりと髪を梳けば胸が高鳴り、三味線の弦が音を奏れば甘い誘惑が耳元で囁く。

 女の私でさえ息を呑むほど美しいと思う姿は、絶世の美女と言っても過言ではない。


「こんないい所あったんなら、教えてくれたっていいじゃあないか。もっと早く知ってたらここで月見酒と洒落こんでたってのに」


 千代はケラケラと笑うと私を隣に呼んだ。

 そしてまた三味線を弾き始める。

 静かに響く三味線はとても心地よい。

 母の子守唄のような曲は、千代の繊細な指使いによって全てを慈しむような優しさを生み出していた。


「どうだい? 上手いもんだろォ」

「うん。すごく綺麗だ。けど」



 ────どこか虚しい。



 私がそう言うと、千代は三味線を弾く手を止めた。

 そして苦しげな笑みで「ばれたかい」と笑った。


「あんたの耳は凄いねェ。音の違いなんざ、弾いてるあたしだって分かりゃしないのに」

「皆分かるでしょ。これくらい」

「いいや、分かりゃしないよ。生馬が前にあんたの歌った唄を調べても、どこにも書いてないって言うんだ。あんたしか分からないんだよきっと」


 千代は少しの沈黙を置くと、三味線を投げ置き、ふぅと息を整えた。



「──あたしは生きてる間、吉原にいたのさ」



 千代は月を見上げながら語る。自分の生前の話を。


 ***


 千代は商家に生まれながら、父親の借金を返すために十六の時に吉原に身を置く羽目になった。

 遊女の世話や雑用の日々を送り、借金を返したらさっさと出ていこうと毎晩言い聞かせるように呟いていた。


 毎晩男を相手にし、風邪を引いても休まなかった。いや、休めなかったが正しいのだろう。

 だが千代がどんなに金を稼いでも、借金は一銭も減りはせず、ついに家族は夜逃げした。


 千代は独り吉原に残され、帰る家も、努力する理由も失った。

 千代は怒りを発散するように仕事に力を入れ、ついには吉原一の花魁──『高風』として名を馳せるほどとなっていた。



『持ち前の美貌で落とした男は数知れず』


数多あまたの旗本から身請け話も来たらしいわ』


『三味線も舞踊も素晴らしいと聞いているわ』


『気高き姿は私たちの象徴となるべきよ』



 吉原の女が羨望の眼差しを向ける中、吉原を訪れる男からは嘲笑と諦めの眼差しを向けられた。



『吉原一の花魁だってぇのに髪もまともに結いやしない』


『どんなに金を積まれても床に入ることもねぇ』


『数多の身請け話も断っちまうってぇ話だ』


『たかが女のくせにお高くとまってやがる』



 気にもしなかった。

 所詮誰に何と言われても、千代にはどこ吹く風でなんとも思わない。

 だが、同情なんかよりは、侮辱の方が自分を律するには丁度よかったという。



 そんな千代にも、想い人がいた。

 とある武家の長男で、身長の高い美男だった。

 吉原を訪れたと噂されても千代は全く興味が無かったが、その数日後、こっそり吉原の外に出た時にその男と偶然出会ってしまった。


 吉原に連れ戻されると思ったが、男は千代の手を繋ぎ、千代の行きたい所に連れて行ってくれた。

 千代が「どうして遊女にそんな事をするのか」と聞くと、男は千代に笑いかけて言った。



『お前が遊女だなんて知らなかった』と。



 千代は男を好きになり、度々密会を繰り返した。

 そして男と吉原を抜け出す約束を交わし、千代は赤い紐を結わえた約束の場所で男を待った。


 ***


 これがハッピーエンドだったら良かったのに。


 まだ結末を聞いていないのに、何となく予想がついてしまった。

 私は膝を抱えて千代を見つめる。千代は寂しげに煙を吐いた。


「で、駆け落ちは成功したの?」


 私が問いかけると、千代は悲しげに笑った。

 千代の白い肌に飛び散った血が着いているように見えた。千代は煙管を咥え、目を閉じた。


「大見世の楼主に、ばれててねェ──」


 千代は語った。

 交わした約束の時間に現れたのは、自分が働く見世みせ楼主ろうしゅだった。

 楼主は言った。千代を手放したくないあまりに、借金取りに金を渡さず、親の夜逃げ後に返済が終わっても吉原に閉じ込めていたと。


 そして、自分から離れていくくらいなら、この場で殺してやると。


 理不尽に斬られた千代の恨みは、どれほどのものだったのか。千代が最後に目にしたのは、暗く淀んだ楼主の目。千代は楼主を呪い殺してやると誓って死を迎え入れた。


 千代は煙管をしまうと、遠くを見つめた。


「結局、あいつがあたしを迎えに来たのは死んだ後だってさ。あたしを斬り殺した楼主をばっさり。その後は知らないけど、きっと嫁さんもらって大往生で死んだだろうよ」

「サッパリしてるんだ。一緒に死んで欲しいなんて思わなかったの?」

「そんなの死人の我儘わがままだろォさ。あいつはあたしに簪をくれた。だからあたしは煙管をくれてやった。それで終わりの話なのさ。

 遊女に愛だの恋だの言ったって、全部一夜の夢なんだ。来てくれただけで十分なんだよォ」


 千代はそう言いながら、簪を外して胸に押し抱いた。

 泣きそうに顔を顰め、身を縮ませる。

 千日紅の簪は、大粒の露をのせた。

 私は月を見上げて知らんふりをする。


 興味がない。

 だから何だ、で済むことだ。


 けれど、私の胸の奥からじわじわと滲み出す熱が、千代のすすり泣きに反応する。



 誇り高き風──故に『高風』



 その名を背負う千代を何度見ても、私には弱い一面を持つ、普通の人間にしか見えなかった。

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