第5話 夜の公園
満月が高く昇る。その光はカーテンのない部屋を
望月たちが夜遅くまで話し合った結果、誰も私を成仏させられないという事が判明した。あの世に逝くことが出来ないというのは残念だったが、せめて名前を思い出すまでこの屋敷に置いておく、と言ってくれたことだけが救いだった。
ひと月ぶりに布団で眠れることが、死後ずっと野宿生活をしていた私には嬉しかった。が、今日だけで頭に詰まった情報量は、今までと比べても桁違いだ。
この里が、霊道の上に創られた幽霊の溜まり場だということと、江戸の頃まで開かれていたが明治以降、誰も里に入って来なかったことも同時に聞かされた。望月は理解出来ないだろう、と言ったが、私は納得した。
ここにいると、全ての音が空虚に聴こえるのだ。華やかな江戸の街が現代に存在しているのに、冷たい風の吹く新月の夜のような、人々の賑わいを遠巻きに見るような、虚しさが溢れているのだ。
私は寝返りをうち、聴こえる音に耳を澄ませる。
どうして私は自分の名前を忘れたのだろうか。
どうして私は名前を忘れたことを知らなかったのだろうか。
どんなに思い返しても、生前の記憶は
名前を思い出せないだけで、私は自分をどこかに置き忘れたような感覚に
──家に帰ったら、名前がぽんと置かれていたりしないだろうか。
「そっか。家か」
私は
しんとした大通りを、土の踏む音を立てて門まで走った。どうして今まで思いつかなかったんだろう。自分の家に帰れば、自分の名前を書いたものなんて沢山あるのに。
私は胸を高鳴らせて外に飛び出した。
門を出ると、霧の中を駆け出した。私はそこで、自分の故郷を思い描く。
すると霧は晴れ、私は自分が住んでいた住宅街に立っていた。
「帰ろう。帰ろう!」
私は嬉しくなって住宅街を駆け抜けた。自分の名前を忘れても、自分の家は覚えている。
古びた標識を曲がり、三軒先の家を左に曲がる。
チカチカと点滅する街灯の先に、我が家はあった。
樹木と花の入り乱れた、決して手入れされたとは言えない花壇と、家の前に停まる二台の車。
周りと違って飾りっけのない二階建ての家は、全ての電気が消えていた。真夜中に自分の家に帰るなんて、ちょっとした悪さをしている感じがする。
私は早速家に入ろうとした。
「───え?」
私の手は玄関に触れたものの、入れはしなかった。
ドアに薄い、こんにゃくのような膜があり、私はそれに弾かれてしまう。私を『侵入者だ』と言わんばかりに、その膜は私の前で波紋を立てた。
「嘘だ······嘘だ嘘だ嘘だ! 私はここの住人だ! 家の中に絶対仏壇がある! 弾かれる理由はない! 私はこの家の家族なんだ!」
だが家の裏手に回れど、どの窓に回れど、私はその膜に拒まれる。二階も駄目だった。
その膜に腹を立て、千切ろうとしても、爪を立てても、ツルツルと滑ってしまう。私は手も足も出なかった。
家族に自分が見えないのでは、開けてくれと頼むことも出来ない。
私は玄関の前で、
「どうして──」
そう言いかけて私は止めた。
玄関の片隅にあったものに、私の目は釘付けになる。小さな皿に高く積もった白い物体。その物体はか細く、神聖な音を奏でていた。
「盛り塩が───」
それに気がつくと、私はその場から逃げるように離れた。
どこに行くかなんて決めていない。とにかくその場にはいたくない。
その一心で満月の夜を駆けた。
胸が苦しかった。息が出来なかった。
走っているせいではない。それは決して、走っているせいではない。
何も考えずに私が着いた先は、生前入り浸っていた小さな公園だった。
住宅街にあるにも関わらず、私以外に誰も来なかった、私だけの場所だ。
生前私はそこのブランコの、四つあるそれの一番右端を陣取って、いろんな唄を口ずさんでいた。
けれど、今はそんな余裕もない。私は肩で息をして、全身を小刻みに震わせる。
あの盛り塩が、私が死んだ理由を思い出させた。
私は「ごめんなさい」と繰り返した。
──頭が悪くてごめんなさい。
──運動が出来なくてごめんなさい。
──なんの才能も無くてごめんなさい。
いつか零した
······『家族』と呼ぶ、資格すらも。
私は涙が出てきた。
顔を覆ってその滴を地面に落とす。
どうすれば良かったのだろうか。どうするのが正解だったのだろうか。
私は兄弟に関心も持たれず、親の期待すら応えられず、たった一度だけでもその望みを叶えるために、私は死んだのに。
私は死んでも拒絶されたのだ。
私は苦しかった。
そして悔しかった。
そして、恨めしかった。
「役立たずめ──」
私は自分にそう告げる。
死んでも役に立たないくらいなら、いっそ地獄にでも落ちればいい。そうすれば、その罪を
何の望みも果たせないなら、生まれなければ良かったのに。そうすれば、家族は幸せになれたのだから。
「何のために今まで生きて、何のために今もここにいるんだよ!」
それでも心は自分の居場所を求めていた。私は自分を殺すように歯を食いしばった。その唇に血を滲ませても、太ももに爪を立てても、私の怒りは収まらない。
望月に睨まれて思い出した、鏡越しに見つめていたあの目付き。見下すような、ゴミを見るような山吹色のあの目が、今も脳裏に焼きついている。
「······帰りたい」
泣き続ける弱い私がそう呟いても、足はどこにも向かなかった。からりと吹いた、冷たい風が足元をさらっていくばかりだ。私がどこかに歩いていくことは無かった。
どこかで
満月は一層その光を強めた。青白いその光は誰かを慈しんでも、私を優しく照らしてはくれなかった。
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