第6話 浄蓮の滝

 兄がテストで良い点を取ったらしい。


 両親に褒められる姿をよく覚えていた。


 私はその兄が羨ましくて、同じように勉強に励んだ。


 私もテストで良い成績を取り、両親に見せた。



 ──誰も褒めてはくれなかった。



『お兄ちゃんはもっといっぱい取ってるのよ』


『一回だけで満足するな』


 私がちらりとドアの隙間から、兄がゲームで遊ぶ姿を見やった。


 ──兄は頭が良いから褒められる。


 私は兄のようになりたかった。追いつけなくてもいいから。せめて、せめて──



「はい。頑張ります」



 いい子でいよう。


 ***


 気がつけばもう空は白み始め、冷たい風に微かな温もりが混ざる。

 空高く飛ぶ鳥の声に私は目を覚ました。

 少し腫れぼったい眼を擦る。結局、私はドーム型の遊具の中で夜を過ごした。


 霧の里に行く気にもなれず、どこかを彷徨う気も起きず、私は自分の存在を隠すように、ここで眠ってしまった。


 せっかく、久しぶりの布団で眠れそうだったのに、自らその機会を潰してしまった。

 更にいえば、彼らの好意を無下にして私は里を出たのだから、行こうにも心が重い。


「······無かったんだ」


 私は昨日のことは夢だと決めつけた。


 自分の心が生んだ浅ましい幻想。

 自分の弱さが見せた甘いだけの夢。


 望月とかいう男にも、千代や生馬なんて人にも会ってない。そう思い込むまで膝を抱えて反芻はんすうする。自己暗示──それだけは得意だった。


 しばらく時間をかけて、私は気持ちを切り替えると、遊具の外に出た。朝の空気が心地よい。私がうんと、背伸びをした──······


 ──瞬間だった。




「いったぁ!?」




 脳天を直撃する強い痛み。まるで岩か何かが落ちてきたような痛さだ。

 私は伸ばした腕で頭を押さえ、その場にしゃがみ込む。決して女らしいとは言えないしゃがみ方に、頭上からは威圧するような、腹の立つ声がした。


「一晩どこをほっつき歩いていたんだ小娘! また悪さなんかしてみろ! ぶん殴ってやるからな!」


 既に殴られた私は、わなわなと震えながら、ドーム型の遊具の上に目を向けた。

 そこには胡座あぐらをかき、でも背筋は伸ばし、拳を握る望月の姿があった。

 ちょうどその背に朝日があるものだから、怒り顔に後光が差す。

 望月を庇護ひごするようなその光が、私の怒りを助長した。


「うるっさいな! どこに行こうと私の勝手だろ! いちいち文句つけんな!」

「人がせっかく部屋と布団を貸したのに、夜中に勝手に抜け出すお前が悪いんだろうが!」

「何で夜中に抜け出したこと知ってんだよ! つけてきたんじゃないだろうな! ストーカージジイ!」

「なっ、じじいって言うな! 夜中に起きたら、お前の部屋の戸が開いていたんだ!」

「やっぱつけてんだろうがクソジジイ!」

「年上には敬意を払え馬鹿者!」


 望月は遊具の上からおりると、「行くぞ」と私の腕を引いた。私はその腕を振り払った。


「家に行って名前調べ、なんてしないからな」


 玄関の盛り塩──それがある限り、私は家に入れない。それは同じ幽霊たる望月にも言えることだ。

 何より私は、あの家に近づきたくない。──


 しかし望月は私を鼻で笑ったかと思うと、また腕を引っ張った。



「お前の家なぞ興味無いな。屋敷を勝手に出て行った罰だ。俺の仕事に付き合え」



 ***


 静岡県──とある滝


 私と望月はお互い何も言わずに、草をかき分けて歩いていた。この辺りの葉っぱは意外と鋭く、迂闊うかつに手を滑らせようものならすぐに切れる。歩くこと一時間、既に手の平には無数の傷が出来ていた。でも血は出てこない。幽霊の特性なのだろうか。


 数羽の鴉が頭上すれすれを飛んで行ったところで、私はようやく口を聞いた。


「どこに行くんだよ」

「滝」

「わぁ簡潔。なんの為に」

「里の女の子が、滝の周りで山菜を採っていたらしくてな。妖怪に声を奪われたとかで」

「妖怪とかファンタジーだろ」

「ふぁんた············?」


 幽霊が山菜採りに来ることも疑問だが、私はそれよりも『妖怪』という単語に疑問を持った。

 生前、私は植物系以外に、妖怪ものや神話なんかに興味を持っていた。だから架空生物、妖怪の名前や種類くらいは知っている。


 でもあれは昔の人から語り継いだ絵空事で、この世に存在しないのだ。

 妖怪なんて、ほとんどが人を怖がらせるために作ったものや、見間違いから生まれたものだ。それを信じるとは、望月は頭がおかしいのではないか。


 しかし、望月は懸命に滝を目指す。

 何度も立ち止まっては空を見上げ、方角を確認する。

 あっちでもない、こっちでもないと独り言を呟いては、滝に近づいたり遠ざかったりを繰り返す。


 私はその様子が見るに耐えず、「先頭代わって」と望月を押しのけた。

 不満をぶつける望月を無視して、私は耳を澄ませた。


 草と風、土の音に紛れて聴こえる水の音。


 揺蕩たゆたうような、穿つような、決まりきった形のない音が、風に運ばれてくる。


 私は草をかき分け、その音の聴こえる方向にどんどん進んでいく。望月は半信半疑でついてきた。


 視界が開け、最後の草をかき分けた時、目の前に大きな滝が現れた。


 水気を帯びた空気が立ち込めて、ほど良くこの場を冷やしている。どうどうと唸りをあげる滝は見上げるほどに高く、陽光を反射してより美しい姿をしていた。


 私は砂利を歩くと、その滝壺に顔を映した。

 揺らぐ自分の顔は暗く、この滝には不似合いだった。


 望月は少し不満げではあったが、滝に辿り着けたのには満足らしく、仏頂面で腕を組んだ。


「まぁ、現代の娘だからな。多少は詳しいだろうと思っていた」

「素直に助かったって言えよ。音を聴いただけだよ」

「ほぉ、良い耳をしているんだな」

「誰にでも出来る」


 そう言うと、望月は滝に近づき、滝壺を覗き込んだ。

 ふと何かを見つけたようで、更に首を伸ばす。上体がだいぶ傾いた時だった。



「うわっっっ!!」



 考える時間も与えずに、望月は蜘蛛の足に絡まれた。

 突然の出来事に望月は避けきれず、そのまま滝壺に引きずられる。


「望月!」

「来るな小娘! 離れてろ!」


 そう言って望月は懐から、何とか札を一枚出すと、蜘蛛の足の伸びる水面にひらりと落とした。


「爆!」


 短い言葉と共に札は爆発を起こし、辺りに小石や水を散らす。

 その水面から波を立て、姿を現したのは、これまた美しい女だった。


 千代が着ていた着物に劣らない艶やかな着物に、背中から伸びる蜘蛛の足が綺麗な装飾のように体に纏わる。人のものでは無い、真っ黒な瞳は芸術品のようだ。

 血を塗ったように真っ赤な唇が、耳まで裂けそうな笑みを浮かべた。


「ああ憎らしい。人間の分際で、この私に抵抗するなんて」


 人の形をしているのに、何とも優美な音を立てる。自然の楽器のような音とは違う。ひとつの音楽のような、形容し難いだ。

 私はその音で、あれが『女郎蜘蛛』だと知った。


 望月は不機嫌になると、懐から何枚もの札を出して吐き捨てた。


「黙れ。如きが、妖怪の振る舞いをするんじゃない!」


 ──でみ、って言ったか?

 私が不思議に思っている間に、望月は女郎蜘蛛に攻撃をする。

 望月は風を切るように、札を女郎蜘蛛に投げつけた。女郎蜘蛛はそれを、口から吐いた糸で弾き飛ばす。

 望月は舌打ちをすると、袖から人型の紙の鎖を引き出し、むちのようにしならせて女郎蜘蛛に巻き付けた。


「全てをいざなえ時の川

 めぐめぐれよ輪廻の輪

 あるべき所へ還し給え この者に魂の救済を」


 よく分からない祝詞を唱え、鎖は女郎蜘蛛を蝕んでいく。女郎蜘蛛は苦しそうに呻き声を漏らした。そして最後の悪あがきで、望月に自身の糸を絡みつけた。


「はっ、俺がお前に負けると思うか!」

「人間如きが妖怪に勝てると思わない事ね。良い男なのに勿体もったいないわ。さぁ、私の血肉になりなさい!」


 二人がギリギリの戦闘を繰り広げる中、私は一人考え事にふけっていた。


 ──望月は女郎蜘蛛を『でみ』と言った。つまりアレは亜種ってことか?


 だがそれには矛盾がある。

 一つは、女郎蜘蛛が先に滝壺を覗いた私を、襲わなかったこと。

 もう一つは······



「おい小娘! 何勝手なことをしている!」



 私は二人の間に割って入ると、紙の鎖を引きちぎった。望月が不利に立つと、女郎蜘蛛は高笑いする。


「おほほほほほ! この娘は良いわね。私の味方をしてくれる。気が変わったわ。この娘に免じて、あんたは私のコレクションにしてあげる!」


 女郎蜘蛛はそう言って糸を引き、望月を蜘蛛の足の届く範囲に近づけようとする。

 望月は全力で抵抗した。私を睨み、「この馬鹿者が!」と歯ぎしりをした。



「大丈夫。だって──」



 私は表情を変えず、女郎蜘蛛に向き直った。

 女郎蜘蛛は上機嫌で望月を手中に収めようとする。私は望月を庇うように立った。目の前の蜘蛛の足は、私の胸の前で止まる。


「何よ。どきなさい、人間」


 女郎蜘蛛は私を威嚇する。けれど、私は一歩も動かなかった。


「邪魔をする気? 小娘に興味はないの。でも邪魔をするなら、容赦しないわ」

「話を聞かずに、攻撃を仕掛けた望月が悪い。けど、コレクションにするのはちょっと待って欲しい」


 私は彼女に言った。それは交渉でもあり、気まぐれでもあった。



「──花札は好きか?」

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