第22話 決別
京都──近江山
復興に勤しむ里を抜け出し、私は山の中を歩いていた。
草をかき分け、小石の擦れ合う音を聞きながら。散歩するような軽快な音は、私が歩く度にあちこちから響いてくる。
だが私は今、気晴らしで山を歩いているわけではない。
私は耳を澄ませ、音を拾う。
それを歌い、辺りを見やると、木の隙間から白い腕が見える。
「教えて、彼の居場所を」
私がそう言うと、精霊は指で方向を示す。私はそれを目印に山を登る。
山の中に洞窟があった。しっとりと湿った冷たい風が中から吹いてくる。
その奥からは琴のような雅な音が聞こえる。私が洞窟に足を踏み入れると、酒臭い風が吹き荒れた。
「誰じゃ。わしの住処に入ってくる不届き者は」
あまりの臭さに鼻を塞いだ。
ただでさえツンとした臭いは苦手なのに、酒の濃い匂いはむせてしまいそうだった。
「酒減らせよ平安ジジイ······」
私がボソッと零すと、奥からケラケラと笑う声が聞こえた。
「何じゃ小娘。お前だったか」
次の瞬間には、私は炎に包まれていた。
防御する腕を撫でる炎は全く熱くなかった。私が瞬きすると炎はなくなり、代わりに目の前に酒呑童子が酒樽に囲まれて寝そべっていた。
「······随分と、踏み込んでしまったようじゃの」
酒呑童子は私の顔を見るなりそう言った。
私はやはりか、と思った。
自分でも手遅れになると分かるところまで悪事を働いた。それが自分の意思であろうがなかろうが、私は境界線の縁まで踏み込んだ。
望月のお陰で留まったものの、私はこれからも綱渡りをするように、自分を制御する必要がある。──周りの人間よりも。
「まぁ、そこまで行ってしまったのなら仕方がない。今日は何の用じゃ? わしの忠告を無視した娘」
「根に持ってんのな。鏡を探してるんだ」
私は雲外鏡が落とした鏡を探していた。
私が妖術にかけられた時、奴は鏡を山に捨てていった。
私はそれが必要だった。
妖術を解く術を見つけたわけではない。あくまで我流で、気休めになるならと、思いついただけだ。
私が酒呑童子に聞くと、酒呑童子はぐいと酒を呑む。そして悩ましげに後ろに隠した鏡を出した。
「あの後、木に引っかかっとってのぉ。見つけたはいいが、お主に渡すのは気が進まんでな」
「お前がそう思ったんなら、多分そうなんだろう」
酒呑童子から私は鏡を受け取った。
とても古い全身鏡だ。
私は洞窟の壁にそれを立てかけると自分の姿を映した。
くすんだ鏡の中には、制服を着た生前の『私』が映っている。胸を血だらけにして、虚ろな目で私を見つめていた。
私は彼女を、撫でるように鏡をなぞった。
向こうの『私』は私に両手を伸ばした。
私は慈しむように微笑んだ。
「汚ぇ手を伸ばすな。死に損ない」
ガシャンッ! と音を立てて鏡は割れた。
蜘蛛の巣のように伸びる亀裂の向こうで、『私』は絶望に打ちひしがれていた。
私は彼女を睨む。
もう必要のない弱さを、恨めしい過去を。
私は捨てることを選んだ。
割れ落ちた鏡は砂のように崩れ、風に消えていった。
私は鏡の向こうで死んだ自分を見下ろした。
その目に恨みはない。
やっと死んだか、という思考だけだ。
私は目を閉じた。
胸の内で、鎖の千切れる音がした。
それと同時に、縛られていた私の感情と思考が吹き出してくる。
その怒涛の勢いは私の頬に一筋の雫を垂らす。
私を縛るものは無い。
私は自由だ。
──私は、私だ。
酒呑童子は私を後ろから、優しく抱きしめた。
そして、私よりも脆く泣き出した。
私は彼のすすり泣きを聞きながら、彼の唄を口ずさむ。酒呑童子の唄は雅で残虐な唄だった。そして、人としての優しさを忘れない唄だった。
私は納得した。
酒呑童子が、私に執拗に忠告した理由を。
酒呑童子には、人の心が残っていたのだと。
私はようやく開放されると、酒呑童子の赤くなった目を見つめた。
悪の道を極めたような鬼であるはずなのに、その目は真っ直ぐなものだった。
私は結わえていた紙紐を解き、酒呑童子に渡した。
昔から気に入って使い続けた太めの布紐だ。
酒呑童子はキョトンとして「何じゃ」と尋ねる。
私は酒呑童子の首を指さした。
元の色が分からなくなるほど古ぼけた布の下に、薄らと赤い筋状の傷があるのだ。
酒呑童子は平安時代に首を斬られて死んだことになってはいる。が、ここにいるということは何とかして逃げたわけだ。きっとその時ついた傷だろう。
けれど、私はその傷に痛みを伴うような悲しみを抱いていた。
「つけとけよ。その布の代わりにさ」
私はそう言って山を駆け下りた。
私がすべきことはもう分かっていた。私はそれをするべく、急いで里に戻る。
山の精霊は手を振って私を見送った。
私は振り向かなかった。
しばらくして、酒呑童子はぼーっと、布紐を見つめていた。そしてハッとすると、洞窟の外まで追いかけた。私がいなくなった山の中を見つめ、外の風に吹かれてため息をついた。
「あの時の娘じゃったか」
そして、人間のように微笑んだ。布紐を首に巻き、傷を隠すと古びた布を外し、愛おしそうに抱きしめた。
***
十年前の冬、酒呑童子の前に小さな女の子が現れたという。
妖術で守っていた酒呑童子の住処を、女の子はいとも簡単に見つけ出した。
女の子は酒呑童子を前にしても泣くことなく、人を呼ぶこともなく、自分のマフラーを外して酒呑童子に巻いた。
『首の傷が痛いでしょう』
そう言って、帰ってしまったそうだ。
酒呑童子は、その女の子の優しさに感謝して、彼女が困った時は力になろう、と心に決めたらしい。
マフラーをあげた本人は、とっくに忘れているのに。
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