第30話 ただいま

 賑やかな太鼓と、笛の音。

 その華やかな音に連れられて集まる人達の先で、曲芸が行われていた。


 操り──人形を操る芸──や、皿回し、短刀のジャグリング、南京玉すだれや手品、数多の芸を五〜六人ほどでこなしていく。

 周りを漂うしゃぼん玉や三味線の流し唄が、更に楽しげな雰囲気を盛り上げて遠くの人をも引き寄せる。


 その中には、生馬の姿があった。


 人だかりの後ろでつま先立ちをする生馬を、私は更に後方でじっと見ていた。

 生馬は人々の後ろをうろついては芸を見ようと小さく跳ねる。その様子はまるで幼子のようだ。


「生馬さん」

「わぁ! 奏ちゃん、おどかさないでよ」


 私に声をかけられ、生馬は大きく跳ね上がる。

 胸を押さえて、生馬は安堵のため息をつくと、また人だかりの向こうに目をやった。

 私も人だかりの隙間を覗き、大道芸人を見つけると生馬の顔を見る。

 キラキラと輝く瞳には、強い好奇心が宿っていた。



「······近くで見る?」



 生馬を連れて帰って来い! 望月にそう言われて来たが、生馬がすぐにここを離れる様子はない。こんなにも興味津々で、離れろという方が難しい。

 それに、望月の言うことを素直に聞くのが、どうにも癪だった。

 私の提案に、生馬は更に目を輝かせる。


 私は生馬を連れて薄暗い路地に入った。

 私が進む度に音は遠ざかり、その喧騒は夢のように朧気になる。生馬の表情も、期待が薄れて曇り始めた。


 路地裏を複雑に歩いて数分ほどすると、またあの喧騒が近づいてくる。

 三味線の音と人々の歓声。華やかな音から逃れたしゃぼん玉が、生馬の期待をまた膨らませる。


 路地から明るい通りを見やると、目の前で大道芸人が芸を披露していた。

 私が生馬に先頭を譲ると、生馬は興奮して曲芸に見入っていた。


「凄いや! すごく近くで見られるなんて!」


 生馬は嬉しそうに芸を見ていた。

 水芸や操りは特に面白そうにして、これは自分にも出来るのか、あの術を応用すればきっと、などと楽しそうに考えている。


 私は壁にもたれかかって、生馬の気が済むまで待った。

 空に橙色が混ざり始める頃、大道芸は終わり、人々は余韻に浸って散っていく。生馬もうっとりして屋敷へと浮かれた足取りで帰る。

 私は、生馬の嬉しそうな後ろ姿について行った。


「楽しかったぁ〜。あんなに近くで見たのは初めてだよ」

「それは良かった」

「ごめんね。僕ばかり前で見ちゃって。奏ちゃん、見られなかったんじゃない?」

「別に良いよ。興味無かったし」


 私は素っ気なく返した。生馬はまだ気持ちが高揚しているのか、機嫌良さげに式神を放った。

 黄金色の牡鹿が、夕焼けにとてもよく映える。生馬は牡鹿を撫でながら、私に話しかけた。


「僕は、あんまりああいうの見せてもらったことが無くて、だから、曲芸とかすごく好きなんだ。歌舞伎も観魚室うおのぞきとかね! ねぇ、奏ちゃんは何が好きなの?」


 生馬は無邪気に言った。


「奏ちゃんの好きな物を聞いたことがないし、何をしても楽しそうな表情をしてないから。少しでも何か、好きなことでも出来れば気が晴れるかと思って」


 生馬の気遣いはありがたかった。一人だけ現代人で心細いのは確かだ。その上、周りの目が私に突き刺さる。何もしていないのに後ろ指をさされるのは、気にしないでいても辛い。


 だが、私の好きな物、と言われても何も無い。

 今まで、親に認めて貰うためだけに生きてきたような人間が、自分にかまけている時間なんてない。

 赤子の頃から思い出しても、私に好きな物も興味があるものもなかった。


 私が何も言わずにいると、生馬は少し悲しげな表情をした。牡鹿を撫で、生馬はため息をつく。


「きっと忘れてるんだ。もし好きな物が無くても、いつか奏ちゃんにも好きな物が出来るよ」


 生馬は私の手を握り、「大丈夫だよ」と言った。私を励ますように。優しく言った。



「君はきっと、自分以外に時間を使いすぎたんだ。これからゆっくり、自分と向き合う時間を作ればいい」



 私は弱く頷くと、生馬の手を見つめた。

 限りなく薄い温もりが、私の冷たい手を包んでいる。これが、生きていたらどんなに嬉しかっただろうか。

 ふと生馬が眉間にシワを寄せた。


「あれ? 僕何か忘れてたような······」


 生馬がそう言った後、屋敷の方から真っ白な鳩が飛んで来た。鳩は生馬の前まで来ると、その身に合わぬ大きな声、それも望月の声で怒鳴った。



『生馬! 奏! 一体いつまで寄り道しているんだ! 生馬は頼んだ買い物は済んだのか!!』



 そう言って、鳩は人型に形を崩して燃えると、生馬の顔から血の気が引いた。

 そして私に力の抜けた笑みを向けた。


「どうしよ······。夕飯の食材、買うの忘れた。夜来すごく怒ってるよ! 今日は夜来の番だ!」

「自分で買えって、言えば良かったのに」

「だって夜来、今日は信州に行くって言ってたから。ごめん、奏ちゃんも付き合って! 一人で店回ってたら間に合わない!」


 私は生馬から買い物メモを預かった。メモの食材はかなり多く、しばらく買い出しをしていなかったのが目に見える。私は呆れたため息をついた。


「良いよ。私は八百屋に行ってくるから」

「ありがとう。早く買って帰ろうね!」


 生馬は牡鹿に伝令を頼むと、駆け足で魚屋の方に向かった。私は生馬と別れて、八百屋に向かう。

 彼の「帰ろう」という言葉に、私は上手く反応出来なかった。


 ***


 神社を抜け、霧に包まれた里の門を飛び越える。

 龍の背から見下ろす里の景色は、屋敷の屋根から見る景色と同じくらい美しいものだ。

 夜の里を静かに駆け、私は屋敷の前に飛び降りた。


 龍は私を守るように着陸すると、私に額を寄せた。私は目を閉じて額を合わせた。

 そして龍は、雄叫びをひとつあげて、ただの式神に戻る。


 誰か起こしたんじゃないか、と不安になるが、まだどこからも声は聞こえてこない。

 私はほっと胸を撫で下ろしたものの、今度は別の不安が襲ってきた。



 ──なんて、言えばいいのだろうか。



 自分勝手に行動した挙句、地獄にまで落ちたのだ。そして今、こうして帰ってきている。

 まさか、「またお世話になりま〜す」なんて、言えるはずもない。いかに厚顔無恥でもそれだけは言えない。

 かといって、どこか別の所に行く気もないし、その宛もない。そもそも、受け入れてもらえるのだろうか。


 最初から最後まで、私は自分勝手だったのだ。今更戻ったところで、きっと前のように手を差し伸べてはくれないだろう。

 ならばいっそ、ここではない、どこか遠くへ行ってしまえばいいのではないか。


 でも、霧の里に帰りたい、と願ったのは私だ。

 拒否されたら、別の居場所を探しに行こう。


「どうせ、私に居場所は無いもんな──」




「奏ちゃん··················?」




 私が腹を決めた直後、玄関にいた誰かが声をかけた。

 私が振り返ると、蝋燭ろうそくを手にした生馬が目を見開いて立っていた。


「嘘、だ」

「あ、えっと、生馬······」


 私は腹を決めたばかりだと言うのに、言葉が喉に引っかかってしまい、何も言えずにいた。


 生馬は裸足で外に飛び出した。

 落とした蝋燭は石畳に当たって、灯りが消えた。生馬は私の前まで来ると、ペタンと腰を抜かした。

 私は生馬の前にしゃがむと、生馬は私の顔に手を伸ばした。私の顔をひとしきり触ると、安心したのか、ボロボロと泣き崩れた。


「奏ちゃんだぁ·········!」

「あっ、えっとその。ご、ごめん?」

「本当だよもぉ! なんで突然、居なくなったりしたんだよ! 心配したじゃんかぁ!」


 ──心配してくれたのか。

 私は生馬を泣き止ませようと、袖で生馬の顔を拭く。それでも生馬は泣き止まず、むしろわんわんと泣き続けた。


「うるっさいねェ。夜中に泣いてんじゃないよォ生馬。ったく、ガキじゃあるまいし──」


 生馬の泣き声に起きたのか、千代が玄関から顔を覗かせる。私に気づくや否や、千代も私に駆け寄った。


「奏かい!?」

「あ、はい。あの······」

「馬鹿だろあんたァ!」


 千代はいきなり怒鳴ると、私の肩を掴んでグラグラと揺らす。その力が強いものだから、私は首が折れないようにするので精一杯だった。


「夜来に聞いたよォ! なんであんな行動をしたんだい! 助かったってのに、あんたはいないし、帰ってこないし! 馬鹿だよ馬鹿! 大馬鹿者だ!」


 千代は揺するのを止めると、その白い肌に淡い雫を垂らす。その雫は千代の膝に模様を作った。


「自分を犠牲にして、あたしを助けるこたぁ無かったんだ。あんたが苦しむ必要は、どこにも無かったろォ」


 私は千代の手に自分の手を重ねた。

 千代は私が犠牲になったことに、酷く苦しんでいた。私は千代の思いも露知らず、あの行動が正しいと思い込んでいた。私が「ごめん」と謝ると、千代は「当たり前だ」と怒った。


「あたしらは家族なんだ。あたしだって、妹をこんな目に遭わせたくなかったんだ!」


 ──家族、か。

 それも妹だなんて。生前は姉も妹も兼用していたが、千代に言われると気恥しい。千代は私の頭を撫でた。

 私はポケットから白と黒の髪紐を出した。いつか千代に買ってもらった髪紐だ。


「あのさ、結ってくれないかな? 自分じゃ上手く結べなくて」

「もちろん、いくらでも。今度、髪の結い方を教えてやるよォ。あたし、そういうのは得意だからねェ」

「ありがとう······千代姐」


 私が髪を結わえてもらってすぐの時、ようやく望月が姿をみせた。

 青白い光に照らされ、望月の驚いた顔がよく見える。


「──奏か?」


 望月が尋ねた。


「ああ、奏だ」


 私が答えた。


「本当に奏なのか?」


 望月が縋るように尋ねた。


「本当だ」


 私はきっぱりと答えた。


 望月は玄関を飛び出した。いつもなら、ちゃんと履物を履け! と怒る望月も、裸足で飛び出してくる。

 千代と生馬は望月に場所を譲った。

 望月は私の前に来ると、途端に顔をしかめて叫んだ。



「この大馬鹿者が!」



 望月はいつも以上に怒っていた。肩を震わせ、拳を震わせ、般若のような表情で私を怒鳴る。


「十年も待ったぞ! お前がいなくなって、十年もだ! 前々から馬鹿者だとは思っていたが、お前は本当に……大馬鹿者だ!」


 文句も嫌味も、ひとひねりしてくるような望月が、馬鹿を連呼するくらいしか出来ないほど怒っていた。



「どうして相談のひとつもしなかった!」



 望月は深呼吸して怒りを抑えたが、結局抑えきれず、怒りながらそう聞いた。

 私は今まで何と言おうか迷っていたのに、急に冷静になり、引っかかっていた言葉もするりと出てきた。



「私に、居場所なんて……ないと、思ってたから」



 私の口から出てくる本音は、外れた蓋の隙間から漏れ出すように零れてくる。とめどなく零れるそれは、幼子の言い訳のようにも聞こえた。


「千代姐を助けて、雲外鏡を消し去れるなら、どうなっても構わないと思ってた。偽善者とでも言ってくれていいよ。間違ってないし。どうせ生前も今も独りだから、どうなろうと誰も何とも思わないって。地獄に逝けるならどうでもいいやって」


 だから私は地獄の門を開いたのだ。

 私から滲み出た寂しさは、怒りにも似た感情になって外に出ていく。

 誰も、私なんか気にしない。死のうと生きようと、私に目を向けるものなんていないのだ。



 ふと、私の上半身が大きく揺れた。

 吹き飛ばされそうな力が、頬にぶつかったのだ。

 私は一瞬、何が起きたのか、分からなかった。望月が震える手のひらで、私を叩いたようだった。



「たとえ聖人君子でも、極悪人でも、その人が死んだ時に悲しむ人は一人いる。たとえお前が自分を粗雑に扱っていても、誰にも好かれなくても、必ず悲しむ奴はいる。お前が地獄に落ちた時、悲しんだ奴が少なくともここに三人いた事を忘れるな」



 そう言って、望月は私を優しく抱きしめた。

 背骨が折れてしまいそうなほどに力が強かったが、それを上回る優しさに、私は思わず泣いた。



 望月は鼻をすすって、何度目かの「おかえり」と言った。

 私は望月の肩を湿らせて、初めて「ただいま」と言った。



 望月はそれを聞いて、愛おしそうに私に顔をうずめた。私は望月の背中を強く握った。

 千代と生馬も、私たちに覆いかぶさって、一緒に涙を流す。望月も地面にシミを作っていった。


 私は腕の隙間から月を見やった。

 山吹色の月は、慈しむように光を放つ。私は更に泣いてしまい、望月の着物を台無しにしてしまう。


 私たちは空が白むまで、肩を抱き合って泣いていた。

 そして私は死んでようやく、家族とは何かを知ることが出来た。

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