第2話 私と男
アーケード街の騒ぎを遠くに聞きながら、特に行く宛もなく、私は住宅街をふらふらと歩いていた。
噂話に花を咲かせる主婦たちと、その周りを駆け回って遊ぶ子供たち。散歩中の老人は、リードに繋いだ犬に急かされながらゆっくりと歩く。
私はふぃっと彼らから目を逸らした。
彼らのしている事さえも、楽しそうとは思えなかった。
私は自分を埋める何かを探すように、住宅街を歩き回った。しかし、どの道を行っても、どの角を曲がっても、互いに張り合うかのように築かれた立派な家と、手入れの行き届いた華やかな庭ばかりが私の前に現れる。
くだらない。──本当にくだらない。
見ず知らずの人間に「素敵なお家ね」なんて褒められたところで、何一つ嬉しくなんてないのに。
自分の家を自慢したところで、その人自身の価値が上がるわけでもないのに。
人間はいつだって意味の無いことをする。
私は虚ろな瞳で家を見上げ、また目を離した。
何を誇ろうと、見栄を幾重に積み重ねようと、全ては脆く消え去るのだから、と悲観して。
赤い屋根の家の角を曲がった時だった。
ふと、ある家のリビングが大きな窓から見えた。
白い壁と木目の綺麗なフローリング、生地が粗めの緑のソファーといった落ち着いた雰囲気のリビングだ。
ソファーでゆったりと新聞を読む男性に、揃いのカップを手渡しその横に座る女性。
夫婦だった。道路の向かいでも、二人の左手に銀の指輪ついているのが見えた。
そこに五歳くらいの少年が、画用紙を持って飛び込んできた。自信たっぷりに、クレヨンで描いた似顔絵に見えない似顔絵を二人に見せていた。
二人はとても喜んでいた。
女性は少年の頭を撫でてやり、男性は自分の膝に少年を乗せる。三人でその画用紙をにこやかに眺めていた。少年はその場の誰よりも満ち足りた笑みを浮かべていた。
それは他愛もない家族の日常だった。
それは生涯気づくことの無い最大の幸せだった。
そして、私がこの世で一番嫌いなものだった。
──無くなってしまえばいい。
私は迷わず彼らのいる家に向かって手を伸ばした。
彼らの家の窓が激しく揺れる。リビングにいる家族の表情が曇ってゆく。それでも抱きしめ合って身を守る彼らに、私は歯ぎしりをした。
許せなかった。
どうしても腹立たしかった。
壊してやりたかった。
壊してやると決めた──······のに。
「やめろ!」
低く掠れた叫び声がして、誰かが私の腕を掴んだ。さっきの男だった。無理やり掴まれた腕を、更に無理やり下ろされる。
すると窓の揺れは止み、その家族は安堵した表情を見せる。そしてまた、強く抱きしめ合った。
──腹が立つ。
私は「あんなもの!」と叫ぶと、男が私の口を塞ぐ。「それ以上言うな」と私を制した。
男は私の腕を引っ張り、その場を離れる。彼はしばらく歩いて適当な所で止まると、汗だくな自分の顔を、目と鼻の先まで私の顔を引き寄せた。
「あんなことをして何になる! 自分を苦しめるような真似をするな!」
──苦しめる? 苦しめるものか!
私は男の手を振りほどいた。
骨を
「私は自分を苦しめてなんかない! 自分のためにしてる事だ!」
私はちゃんと、自分を『幸せ』にするために行動している。アーケード街も、未遂に終わったあの家族の
男は私の言い分に、呆れたように頭を掻いた。狂っている、とでも言いたげなその眼差しに、私は腸が煮えくり返る。
「お前が幸せを追求することは構わん。が、生者に害をなすのは駄目だ。悪霊になる前にさっさと成仏しろ」
「出来るものならとっくにやってんだ。なのに私は今ここにいる。死んで一ヶ月も経つのにまだ
男は目を見開いていた。
自分の死んだ時代を当てられたことが、そんなに驚くことだったのか。
かくいう私も内心戸惑っていた。
少なくなったとはいえ、着物を着る人は一定数いる。目の前の男だって、年齢は三十前後だ。
何より私は、霊能力者や
これをどうして戸惑わずにいられるのか。
男は考え込むように
「仕方ない。じゃあ成仏させてやるから、さっさと名前を言え」
「随分と上から目線なうえに、死人のクセして坊主気取りかよ。笑わせるな」
「女だというのに口が悪いな。これでも生前は僧だった。今だって似通った仕事をしている」
死んでからも仕事をするなんて、真面目極まりない。私は男を鼻で笑った。
男は「嫌味な
「さっさと言え。お前みたいな浮遊霊は、名前がなければ成仏させられん」
「はいはい。お偉い坊さんの言う通りに。私は
その先が言えなかった。
何度言おうとしても、苗字の下から言葉が消える。私は頭が真っ白になった。
慌てて記憶を
男は一向に喋らない私に痺れを切らし、「早くしろ」と急かした。
男の気持ちも理解出来る。だがどうして無理なのだ。
「おい、いい加減に──」
「··················ない」
「はぁ? 大きな声で言え。聞こえん」
私は泣きそうな声で言った。
「──名前を、思い出せない」
自分を自分たらしめる言の葉。
この世に生を受け、親から最初に与えられる贈り物。
生涯肌身離さず持つべきものを──
──私は忘れてしまっていた。
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