第3話 霧の里
「本当に覚えていないのか?」
男は怪しそうに聞いてくる。嘘だと言いたげな瞳に私はこくりと頷いた。
男はまだ疑いの目を向けてくるが、誰が好き
私が男を親の
「············ついて来い」
そう言って男は私の前を歩き、住宅街の向こうへと行ってしまった。見ず知らずの人、怪しさしかない男の亡霊について行く人なぞいるだろうか。そう思っていながら、やめればいいものを、私はその男について行った。
風は木の葉をさざめかせて私とすれ違う。太陽はゆっくりと西へ傾き始め、その温度も肌を刺すような暑さから、全てを慈しむような温かさに変わる。
私は、人は死んだら何も感じないものだと思っていた。だがそれは、実際に経験してみると想像とは遥かに遠いものだった。
熱さも冷たさも感じるし、腹が減ったり眠くなったりもする。欲求が減ることはなかった。
感情には正直になるし、その制御も出来ない。幽霊お得意の壁抜けや瞬間移動は、やり過ぎると吐く。
腹が減れば、売り物の霊体らしきものを失敬して食べ、眠くなれば、街中のベンチに座って眠った日々は思い出せる。
いずれ成仏出来るだろうと、気楽に考えて一ヶ月も過ごしたその経験は、言葉に出来ないような未知の感覚でいっぱいだった。
それを覚えているくせに、どうして自分の名前は思い出せないのか。
「──からりと零れた木の葉の音に
私が舞い踊れば花の香りの立つことをかし
さらりと流れた川辺の上を
私が走れば獣の憩いに涼を添え───」
「おい」
私が小声で歌っていると、男が声をかけてきた。
気がつくと、住宅街もだいぶ奥地にまで進んでいた。男は不思議そうに聞いた。
「見ず知らずの男について来て、お前は不安や恐怖を感じないのか?」
男は私の歌なんかよりも、私が疑いもせずについて来ることに不安を感じたらしい。
そりゃあそうだ。お互いに亡者とはいえ、三十そこらの男に十八の少女がついて行っているのだ。
これが生者であれば、間違いなく事案であり、職質の対象になる。
だが、私は何とも思っていなかった。
私が「別に」と答えると、男は「そうか」と言って前を向く。それ以上の会話はなかった。
男が危害を加えるとは全く予想していないし、これまたどうしてか「絶対に手を出さない」と私は知っていた。
もし仮に、男が私に危害を加えたとしても、私は逃げ切れる自信があった。
私は元々足が速い方だ。そしてすぐに手が出る
男が「ついて来い」と言ったから、
男は住宅街の一角にある神社の前で止まった。
通学路の途中にあり、家同士の隙間を埋めるようなこじんまりとした神社だが、それなりに参拝客のいる神社だった。私もよくこの神社の前を通った。
私はふっと小さく吹いた。
「生前は僧だったんだろ? 何で神社に来てんだよ。信仰心の
「本当に嫌味な餓鬼め。ここが入口になってるんだ」
男は私に舌打ちをすると鳥居を潜り、賽銭箱をまたいで拝殿へと入った。
私はまだ男を「
初めて入った拝殿の中は想像していたよりも広く、戸の向かいの壁に豪華な祭壇があるだけの簡素なものだった。
神聖な領域に溢れる音に、私は一人で耳を澄ませる。
男は懐から一枚の白紙の札を出すと、聞いたこともない変な呪文を唱えた。
「姿映らぬ人の世よ 我が身を霧に眠らせよ
浮世の里へ誘い給え」
そう唱えたかと思えば男はその札を、床に思いっきり叩きつけた。
私が冗談交じりに罰当たり! と叫ぼうとした。だがその前に、札の下から蜘蛛の巣のように光の筋が伸び出した。青白い光は
私はその光の眩しさに、堪らず目を閉じ、腕で目を守った。それくらいしないと、目が痛んで痛んでしょうがないのだ。
腕で顔全体を覆っていても眩しかった。
数秒ほどで光が消えた。気がつくと、辺りはひんやりと冷たくて、夕焼けのような薄い橙色に染まっていた。
私が顔を上げると、そこは神社の拝殿ではなく、伸ばした手も見えなくなるような、ぼんやりとした濃い霧の中だった。
男はこの濃霧の中を、真っ直ぐに歩いていく。私ははぐれないように男の黒い着物を目印に追いかける。
「ぶっ·········!」
少し歩くと男はぴたりと足を止めた。私はうっかり男の背中にぶつかった。よろけた男が不機嫌そうに私を見下ろした。私は男のその表情よりも、今私の前にある物に目を奪われていた。
全てから
男は袖を
アスファルトなんかではない、土の地面が懐かしい。
ずらりと並んだ昔の木造建築物は圧巻で「これぞ雅だ」と言わんばかりの美しさだ。
現代風の自由な髪型ではあれど、老若男女、皆着物を着ては楽しげに大通りを行き来する。
江戸だ。時代を勘違いしてしまうような江戸の街並みが、私の目の前にある。
「──どうして」
男はふぅ、と息をつくと、目線を江戸の街に向けたまま言った。
「ここは『霧の里』だ。霧の中にある里だから霧の里。覚えやすいだろう」
「街じゃん。里じゃない。これは街だって」
「少しばかりうるさいが、まぁ我慢しろ」
そう言って、男は顎で大通りを差すと一人でさっさと大通りに消えていく。私は困惑していたが、ここで一人にされたくもなかったので、仕方なく男について行った。
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