第25話【行動。行動! 行動‼】
その日の授業は悲惨なものだった。頭が右へ傾き左へ傾き、ノートの上に気泡のまったく存在しないとろりと透明な唾液の水たまりができるのも一度や二度ばかりじゃない。その度に主のいない桃山さんの席を見て緊張感を維持しようとしたが生理的欲求の前にはいかんともし難かった。
結果的に学校で適度に睡眠を補給したせいか学校が終わってもかろうじて体調は保っていた。俺は家へと身体にむち打ちダッシュする。
桃山さんの家はいったいどうなったろう? パトカーが止まっていたから今度こそ捜索願くらいは出されているかもしれない。桃山さんは日本にいない可能性が高い。けど百パーセントじゃない。日本のどこかにいる可能性だってある。なら日本のことは日本警察に任せた。
家に着くやいなや俺はガレージに入り込み、はしごをつかみひたすら昇り始める。今朝早朝からもう八時間は過ぎている。暖炉の中から顔を出すとそこには既にふたりがいた。俺は暖炉の中から這い出ながら「おじゃまじゃなかったか?」と訊いた。
「バカなことを言わないでとーこさんの身のことだけを考えてください」と井伏さんにたしなめられる。白い丸テーブルの上にはごちゃごちゃといろいろな物が置かれている。王子は無言だった。なんとなしに空気が重い。俺は王子に尋ねた。
「状況はどう?」
「呼びかけが載った新聞が出回り始めてからそれほど経ってない。変わらずだよ」王子の声には心なしか張りが無い。まあそれはそれとして確かに新聞に例のメッセージを載せても、それが王国と公国の政略結婚を巡って起こった事件に関係する符丁だとは、現段階では誰も気がつかないだろう。事件が起こったことすら一般人は知らないんじゃないか。
「もうテレビCMの収録は済ませました。編集も終わってます」井伏さんは言った。
「えっ、もう?」
「ハイっ、この建物の方に来てもらいましたから。カモさんにも分かるように日本語バージョンも造ってみたんです。ちょっと見てみます?」そう言って井伏さんはテーブル上のタブレット端末っぽい板を俺に示し板面を何回かタッチした。
こういう物もあるんだ……
その画面をのぞき込む。
井伏さんが新聞を両手で広げて持った状態でいきなり画面上に現れ、『みなさんこんにちはわたしですっ』とにっこり笑って言っていた。『わたしです』で通じるのが凄い。
『七時から八時までの間、出突っ張りで失礼します。では行きますよ——』で一旦セリフを区切りその後に——『新聞を読みましょう。新聞を読みましょう。新聞を読みましょう』と続けて言いだしていた。
…………。
『——実は古新聞も面白いんです。古い新聞はタイムマシン。あの日に気分だけ戻れたりするんです。気になる日の新聞を取っておくのもいいですよ。昨日なにがあったか覚えてますか? 試しに一日前に気分だけ時間旅行です』
井伏さんのテレビCMはこれで終わった。意表を突かれたというか声も出ない。冒頭の『新聞を読みましょう』を聞いた時とは一八〇度印象が変わっていた。
「これは……印象に残ります。正直もっと説教臭いものだと思っていたので」
「えっ、そうですか? 良かったぁ、一生懸命考えて」
「井伏さんが考えてくれたんですか?」
「当たり前ですよ。とーこさんを助けるのに他の人だけに任せるわけにはいきませんから」
「でもなぜ古新聞なんですか?」
俺は部屋をチラと見廻す。この汚部屋の中にも古新聞が溜まっていたりするのだろうか?
「それは今朝の新聞を見て欲しいからです。テレビCMが流れるのが今夜だと明日の新聞の方を一生懸命見てしまうでしょう? だから敢えて〝古新聞〟って言ったんです。昨日あったことは今朝の朝刊に載りますから」
人の知恵ってのは集めるものだと心底思った。『新聞を読みましょう』などと誰に言われても『余計なお世話だ!』となるに決まっていると正直期待などしていなかった。だけどここまで具体的に指示を出しながら不思議と印象深いものに仕上げてくるとは……
「これ、大公様から許可をもらうの大変だったでしょ?」
「大目玉をもらっちゃいました。お父様から」
「じゃあ……」
「でもわたし、我を通しちゃいました。生まれて初めてです。だからたぶん〝許可〟の方はもらってないです」
「ミーティーはすごいよ……」うなだれたまま、ぼそり王子がつぶやいた。
「なにかありました?」俺は井伏さんの方に尋ねた。来たときからこの部屋の空気が妙に重いなぁと感じてはいた。
「ちょっとした修羅場が。お父様に『今回の事件は私が王女を連れ出したからです』と言って謝ったんですけど一言も口をきいてもらえなくて。専らわたしだけが叱られちゃいました」
政略結婚の相手である娘の婚約者、強国の王子相手になにかを言いにくかったのか。それとも口もききたくなかったのか。おそらくその両方だろう。
『見掛けによらず王女の気は強い』俺の見立ては間違いじゃなかった。
「それからポスターに使うわたしの写真の撮影も済んでます。ポスター用の背景を作ってきてくれたんですよね?」畳み掛けるように井伏さんが俺に訊いてきた。一刻も早く印刷に入りたいという顔。
「背景というか背景に使う素材ですね」と俺は言いA4の紙をカバンの中から取りだした。
井伏さんがそれをのぞき込んでくる。
「なんですか? この妙な文様は」井伏さんが訊いた。
今度は王子にその紙を見せてみる。
「いや……これは文字じゃないか?」王子が言った。井伏さんが頬を膨らませた。だがやっぱり文字は文字だと分かってしまうか……
「国語辞典貸したこと、覚えてるか?」俺は王子に訊いた。
「覚えているけど。まぁそのおかげでこうしてカモさんともコミュニケーションがとれている」
「あの機械を使ったら、喋るだけじゃなく日本語を読めるようにもなるよな?」
「もちろん」
「俺は桃山さんの家で犯人グループの、たぶん全員と会話をしている。全員日本語が堪能だと感じた」
「なるほど」王子がうなづいた。
「えっ、どういうことです?」と井伏さん。
「つまりメッセージを伝えたくない相手にメッセージが伝わってしまう可能性がある。それは避けたい、ということです」俺は言った。
「そこで問題はあの機械を使ったであろう人たちにこれが読めるかどうかだ」俺は王子を見ながらそう言った。
「……いやよく解らなかった」王子は言った。
今度は井伏さんに、改めてA4の紙を示す。
「解りません」
上出来だ。
「それなら文字に似せたデザインということになる」俺は言った。
「カモさん、これは確かに日本で使われている文字なのか?」王子は訊いた。
「使っている人はいる」俺は言った。
「おかしいな、なら解らないはずはないんだが……」
王子はその文字がなぜ読めないのかなおも納得できない様子だった。このリアクションなら、より確実性は増したと言える。
「つまりこれはとーこさんへのメッセージなわけですね?」井伏さんが訊いてきた。
「その通りです」俺は言った。
「なんて書いてあるんです?」
「まあ『俺はここにいます』とか『助けます』とか『連絡下さい』とか、そんなんです」
「連絡ですか、じゃあわたしと同じですね。わたしも『紙ヒコーキ飛ばして』ってメッセージを送りました」井伏さんは極めて真顔で言った。
「紙ヒコーキ?」
俺はなんのことだか解らない。
「いいですか、カモさん、この新聞、いやわたしが昨日言ったことを思いだしてください」
「ごめんなさい。全文は思い出せません」
「しょうがないですね。こういう一文があったのを覚えていませんか? 『どうか想いが飛行機に乗ってわたしに届きますように』って」
「確かに言われればそういうことを言っていたとは思いますが」
「どう思います?」
「飛行機に乗って会いに来てください、ですか?」
「違います。乗るのは人じゃなくて想いです」
あっ、もしかして!
「『想いが飛行機に乗る』ってのは紙ヒコーキになにかメッセージを書いて飛ばしてください、ですか?」
「大当たりです。さすがカモさんです。それなのにこの人は解らないんです!」
「ミーティー、解らないよそんな謎解きは。想いは人間が想うから存在しているんじゃないか。想いだけが飛んでくるなんて魂だけが飛んでくるようなもんだよ」
かなり気まずい雰囲気が漂った。そりゃ禁句だ。魂だけが飛んできたらそれは幽霊だ。幽霊が来るってのは死んでるってことじゃないか。
だが王子の言うことの方に説得力があってしまう。テレビCMの方には感心した。だがこの新聞広告(?)は微妙なところがある。こういう暗号めいたメッセージを発して出した人の意図通りに受け取って欲しい人が感じるものだろうか? ダイレクトにメッセージが書いてあるわけじゃないのだ。
これは文面を変える必要が出てきてしまった……何度も書き直して書き方のコツはを掴んでいたのは幸いだ。
「少しここで作業して大丈夫ですか?」俺はそう言って井伏さんから承諾をもらう。
大急ぎで文面を考え直し書き直し、新たなるポスター背景として仕上げる。それを井伏さんに手渡した。
「これいつごろポスターになります?」俺は訊いた。
「取り敢えず思いっきり大きいのを刷って駅とか目立つ場所に貼りましょう」井伏さんは少しだけズレたことを言った。
そうだよな、いつ出来るなんて分かるわけはないもんな。
ポスター背景原稿の入稿を済ませると後はひたすらなにもしない。というかすることがない。部屋の中を時々ぐるぐる歩き回り窓の外の運河の景色を睨むように見たりする。
そうこうするうちに超大型ポスターが刷り上がり、駅とか議事堂とか博物館とか公共系の建物の壁面に貼り出されたとの報告が入った。その時は三人揃っての歓声が上がってしまった。実はこの建物の塀にも貼られていたりする。井伏さんたっての希望で。完成は入稿から三時間くらい経った後だろうか、仕事は超がつくほど早いと言っていい。
夜七時からは井伏さん出演のテレビCMを五回ほども見てしまった。効果があってくれと念じながら。
〝行動。行動! 行動‼〟だった。
しかしここまで——
能動的にすることは、もはや無くなった。
同じ部屋に三人も人がいてろくに会話もせず黙りまくるという重い重い土曜日の終わり。そんな日がもう過去のものになろうとしている——
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます