第9話【膠着状態】

「あの、カモさん……」仮称井伏さんに声を掛けられる。

「はい」と言ってそっちに顔を向ける。

「〝とーこさん〟が事件に巻き込まれたのは絶対に今日です、信じてください。昨日は〝とーこさん〟はわたしのためにわざわざ行かなきゃならない学校を休んでくれたんです。だからわたし達は益々友だちになれたかなって——」

「『信じてくれ』って私には言うつもりはないのかい?」王子が悲鳴のような声で問うた。


 お気の毒に……な。


「——違うんです。わたしはあの警察の人にカモさんが大事にしている〝とーこさん〟っ、その〝とーこさん〟誘拐の一味だと思われている。違うんです。わたしだってすごく短い間しかいないけど、〝とーこさん〟を大切に思っているんです。それを信じてくださいっ」


 この声調子——もはやこうなると言うべき台詞はひとつしかない。さわやかな風吹く五月の夜、ひとつの約束(のようなもの)を交わすしかないだろう。

「信じますよ」俺はそう言った。


「こちらから電話を掛けるんだ‼」そうした雰囲気をものともせず、ある種破壊するような発言が飛び出した。王子だった。王子は耳の痛いことを続行で言った。

「犯人たちから電話が掛かってきたのはたった一度じゃないか!」


 その通りだった。これはあの警察官が言うとおり、俺を交渉相手だなんて向こうはこれっぽっちも思っちゃいないってことだ。


「だからこっちから仕掛けるんだ」王子は言い切る! 〝掛ける〟じゃなく〝仕掛ける〟か。


 あの着信履歴に記録として残っているあの番号は桃山さんのケータイ番号だ。それが分かっているのに掛けにくいことこの上ない。そこに掛ければ電話口に犯人が出るから。

 しかし犯人と連絡をつけないと桃山さんは戻ってこない。それは動かしようがない。

 だがいざやる段になると交渉など気鬱だ。犯罪者と喋るなど。俺のことば次第で桃山さんの命すら危ないんじゃないのか。やはり素人の出る幕ではなくプロの出番なんじゃあないだろうか。

 むしろこれは桃山さんの冗談じゃなかろうか、と根拠無き楽観へと逃げ出したくなる。例えば桃山さんが女友達に頼んでだな————いや、それだと本当に目的不明か。だいいち『王子と王女の婚約解消要求』の件の説明がつかない……


「電話する先が警察だったらどうなるかな?」俺はおそるおそる観測気球を上げた。

「警察?」王子が言う。語尾が上がっている。あからさまな疑義だった。

「カモさん、ここの警察……日本の警察に掛けるつもりですか?」今度は仮称井伏さんが言った。

「誘拐事件が起こっていることをどうやって日本の警察に信じ込ませるんだ?」王子の疑問はナイフの刃だった。まさしくその通り。家族が通報でもしない限り、まず信じないだろう。

「それとも警察に力になってくれるような特別な知り合いがいるのか?」さらに王子が続けた。

 もういい! 内心で俺は叫ぶ。警察庁刑事局長の知り合いなどいないのだ。現状日本警察が動いて助けてくれるような状況じゃあない。やるのはどうやら俺しかいないらしい……


 いつの間にか下向き加減になっていた顔を上げると仮称井伏さんが心配そうに見つめている。俺は堂々と見えるようにケータイをつかみ、掛ける動作に入る。おっとそうだった。会話は録音しておくんだった。あの男だって警察であることには違いない。何かの力になってくれることを信じたい。俺と犯人との会話から何かをつかめるなら、つかんで事件解決のために役立てて欲しい。俺は確実を期し着信履歴に残った番号に電話する。


 電話がつながる。「桃山さんですか?」俺が言うやいなや電話が切れてしまった。

「どうしたんです?」王子が訊いてくる。


 初っぱなから何が何だか分からない。だがすぐさま俺のケータイが鳴り始める。番号を確認。間違いない。俺のところに掛かってきた脅迫電話の番号は桃山さんのケータイ番号。すぐに電話に出る。相手は何も言わない。だが切れる様子も無い。俺はもう一度言った。


「もしもし、桃山さんですか?」

『もしもし?』、その語尾は上がっていた。

『〝ぷろんと〟、じゃないのか?』それは間違いなく女の声だった。

「プロント」俺は言った。

『やっぱりさっき掛けた奴か』

「やっぱり、じゃないぜ、あの後どうなったんだ? 桃山さんは無事なんだろうな!」

『そう言えと命令でもされたのか?』

「なんだと!」

『あの後どうなったんだはこっちが言いたいね。未だに要求にどう応えるかを聞いていないんだけどね。まあ、異国の誰だか分からない一般人の命などどうでも良いってんならあの連中に相応しい回答だろうけど』

「お前、そういうつもりなら最初から要求なんて通らないって思っているってことじゃないか! だったら桃山さんを解放しろ!」

『あんた本当に大事な人質をとられている側なの? 普通もっと低姿勢で来るでしょ?』

「分かった! 分かったから! じゃ、例えばさ、婚約したままでずっと結婚しなけりゃ目的的にはどうなる? 目的を達成していないか?」

『へー、その〝条件〟誰かから聞いたんだ。でもね決して結婚することのない永遠の婚約者なんてあると思う?』

「分かった。じゃあせめて桃山さんの声を聞かせてくれ!」

『憐れになってくるな。けどそれはできない。我々の要求を容れ両国が婚約解消を発表しさえすればいい。それを期待するんだな』


 電話の女はその声を最後に電話を切ってしまった。俺は電話が切れたのを確認し録音も切る。俺は言った。


「電話はつながった。つまり犯人グループは〝こっち側の世界〟にいるのは間違いない。しかし桃山さんがいまどうなっているかは分からなかった」と。そのことばを言い終わるとほぼ同時に仮称井伏さんの涙声。

「ごめんなさい。カモさんっわたしが『女の人じゃないとだめ』なんて言ったから〝とーこさん〟を巻き込んでしまったんです。もし〝とーこさん〟に何かあったらわたしどうしたらいいか分からない」言い終わるなり涙をぼろぼろ流しながら本泣きに泣き出してしまった。


 この人の責任はゼロではない。だけど桃山さんが誰のせいでこういう目に遭っているかを考えると、そもそも俺があの茶封筒に興味を持ってしまいつまらん行動をしてしまったところから始まっているのだ。少なくとも俺があの封筒を破いて無視していたらこうはなっていなかったろう。俺は微妙だ。結局事を全部、桃山さんに投げたのも俺なのだ。


 『お前のせいで俺の大事な人が!』と言えりゃあいいのだが、そんなことできるわけない。そもそも関係だって、たいした関係じゃないしさ……。小学校の五年・六年時に同じクラスだったというだけの間柄だ。とどのつまりただなんとなく後味が悪いだけなのだ。もちろん事件は始まったばかりだが。


「プロが動いてくれている……と思う。あの人に任せれば大丈夫だ」

 自分で言ってて非常に虚しい。それは結局他人頼み……。その時の街灯下に照らされた王子の顔。実に不快そうな、こいつには似合わないような歪んだ表情を見せていた。なんとなしに不安が増幅される。しかしもう打つ手が無い。

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