第2話【俺、公園に誘い出されてしまう】
さて次の日。もちろん平日だ。故に今日も俺は学校に行かねばならない。
俺はよほど心配性なのか昨日の出来事が不安だったのか、朝早すぎる時間に目が覚めた。
五月の朝は午前四時半でもう明るい。五時になればもう日の光すら差している。そんな朝五時に目が覚めた。起きた瞬間思ったこと。
俺は生きている。
昨晩から今日にかけて事件は何一つ起こらなかった。ますます昨日庭に立ちこちらを確かに見ていたあのふたり組のことが幻のように思えてくる。とは言え寝られなかったは寝られなかった。まさかあれは幽霊だったのだろうか? 珍しく新聞と牛乳の回収係を今日に限り俺が果たすことになった。
——俺はついている? いや、俺はついてない? 郵便受けの中、朝刊に混じり、何の味もそっけもないこれぞ『ザ・文具用品』と言うべき茶封筒が一つ入っていた。
この間市議会議員選挙は終わったばかりだが、と思い何気に開けようとするとその口がしっかりとのり付けされて固まっている。いったい誰宛だ?
俺は短絡的に思った。これは昨日の出来事と何か関係のある重要封書に違いない、と。
なに食わぬ顔で新聞をテーブルの上に放り投げ牛乳パックを冷蔵庫へと格納する。そうして慌てながら二階に上がると件の茶封筒の端をハサミで切って開けた。
『きのうはどうも炭ませんでした。きようそこのみやこの公えんであさのうちお待ちします』、というたどたどしい手書き文字で記された手紙が入っていた。
なんだこりゃ?
『炭ません』というのは「すみません」なんだろうきっと。『きよう』というのは「今日」なんだろう。『そこのみやこの公えん』は「そこの都の公園」ではなく「そこ野宮此之公園」で間違いない。確かに「野宮此之公園(のみやこの・こうえん)」という多少広めの公園がこの近くにはある。誰だか知らんがそこで朝待っているらしい。
しかしいったい誰の呼び出しだ。
昨日俺が見たヤツらが差出人なら出したヤツは男か女かのどちらかだ! と……よく考えたら男か女のどちらかが差出人なのは当たり前だったな。にしてもこのへったくそな字とたどたどしい文言の羅列はなんなのだ。少なくとも昨日俺が自分の家の庭で見た奴らは小学生には見えなかったが——
ところで、この手の呼び出しに応じてしまってよいものかどうかについては一考を要する。何も律儀にバカ正直に呼び出されるのはアホだ。何が何人待ちかまえているか知れたものではない。だが夜中ならともかく既に明るくなっている頃の時間帯だ。
いや待てよ。明るいとは言ってもこの時間帯は人通りがまばらのはずだ。今はまずい。ここはいつもより三十分早く学校へ行くでいいのじゃないか。七時台なら間違いは起こらない。七時だって朝だしな。昨今街で取り組む防犯対策というのは進んでいて、街灯の設置はもちろんのこと防犯カメラの設置も当然だし、それに呼応するように公園の立木や植え込みも短くすっきりと刈られ、いわゆる死角というものが存在しない。「野宮此之公園」もそうした公園なのだ。
俺は朝三十分早く家を出た。
「野宮此之公園」なら学校へ行く通学路の途上にある。俺は公園前で自転車を降り公園内を見回しながら中に踏み込む。朝は誰であれせかせかと忙しく動いている。公園に人影は無く小さい子を連れた親もいない。そんな時間帯にバカみたく公園内に留まっている者がいたら、そいつがこの茶封筒の送り主だろう。
早くも見つけた。公園内ブランコ前のベンチ、うつむき加減で座っているひとりの長い黒髪の女子。そう女子だ。歳は俺と変わりなさそうに見える。短めのチェックのスカートにごてごてと金色の飾りのついた不自然に豪奢なブレザー。にも関わらず下品に見えない絶妙のバランスで成り立っているブレザー。見たことのない制服だ。早五月となり暑いのかブレザーの袖はまくし上げられ七分袖状態に。それっぽいスクバも隣りに置いてある。
改めて周囲を見廻す。他に該当者はいない。こんなやつだったか? 昨日庭にいたのは。
暗すぎて顔は分からなかった。ともかく茶封筒の該当者はこの人物だけのような気がする。で、どうする? 俺はこの女子に声を掛けるべきか? そうしなくてはならないのか?
やりにくいな——。
と思った俺は公園内を歩き回ることにする。意味ありげに二度ほどそいつの目の前を通り過ぎた。なんの反応もない。ぐずぐずしているうちにどんどん時間だけが過ぎていく。ケータイで時刻を確認する。ここにいられる時間はせいぜいあと十分くらいしかない。仕方ない。俺にしてはあり得ない大胆さだが————。
「茶封筒を俺の家の郵便受けに入れた方ですか?」と件の茶封筒を示し俺は尋ねていた。近くでよくよく観察すればその女子は非常に目立たないように細いツインテールを結んでおり眉が多少濃い目かなというくらいでまったく非の打ち所がない顔をしていた。その顔がにっこりと微笑みかけてくれうなづいてくれていた。そうして黙ってさえいてくれれば即座に虜になってしまうほどの容姿だった。だが————。
「〆ゟ〼ゞ◑⁂♨☂❖〠♠□☃♯﹅〓⦿」といった感じでしか表現できない意味不明の音声がその女子の口から聞こえてきた。俺の耳には、
「ねぇろぽくわーらうせねそしいせいうぉれんちぃや」というようにしか聞こえなかった。
しかしこれで確信した。昨日の夜俺の家の前で荒んだ痴話喧嘩をしていた片割れは間違いなくこの目の前の女子である。その女子は何かを必死に考えているようだったがふいに、
「わたしおとこからたすけ」と言った。
〝私、男から、助け——〟?
『わたしを男から助けて』、間違いなくこういう意味のことを言おうとしている。たぶん俺は非常に迷惑な顔をしただろう。
着ている服も髪型も顔も非の打ち所がないのだが、男からこの女子を守るというのは自ら進んでトラブルに巻き込まれに行くようなものだ。昨日の激しいやり取りが一瞬にして思い出された。火中の栗を拾うとでもいうのか本当にこの女子に付きまとう男を撃退すれば新たな恋の予感状態になるという夢みたいなパターンも夢じゃないという幸福な状態になろうか——とは思うのだが。
とは言え俺は判断を迫られていた、正体はまるで不明だが非の打ち所がない顔をした女子となんだか分からないが接点ができた。実に典型的なラノベ系、実によくある深夜アニメ系なあり得ない展開だ。こうした場合主役の男がこの接点を拒否るなどという選択肢は無い。いや拒否るという選択肢を男が選んでも女の子の方が積極的に攻めてくるというのが黄金律というものだ。
——ほんの僅かの間でもこう思ってしまった俺が恥ずかしい。その女子はスクバの中から紙片と筆記用具をを取りだし膝の上に置いたスクバの上でなにか文字を書き始めた。それをただ見ているだけの俺。そしてその紙はこちらに示された。
『ちからくれる おんなのこ わたしにあんない』、とあった………
おんなのこ……女の子が希望なのか……
書いて示されたその字はかの茶封筒の中の手紙と正に同じ字……この下手くそな文章表現と相まっていよいよ封書を俺の家に投函した人物で間違いない。〝ボーイ・ミーツ・ガール〟ががらがらと音を立てて崩れていく。
しかし何者なのか? 見かけ上は日本人である。なのにこの女子の喋る言葉の変さはなんだろう。昨今は見かけは同じでも外国人というパターンも珍しくもないが、少なくとも外見上はどこからどう見ても東洋人、いわゆる黄色モンゴロイドな風貌である。いったいどこの国の言葉だろう? 言葉が通じそうもないとくれば後はジェスチャーしかない。俺は万国共通であろう断りの意思表示をした。即ち、首を横に振るのだ。そして振った。
俺を頼られたならあるいは非常に断りにくかったかもしれないが、『女の子を紹介してちょうだい』では断ったとてあまり罪は感じない。だいたい普通に会話できる女子の知り合いもいないんだ、こっちは。
俺の断りの意思表示はどうやら通じたらしくその女子はたいへんに落胆した表情になり、なにごとか必死に訴えようとなおも試み続けていた。もう座り続けていることもできないのか立ち上がってしまい必死にわけのわからない言語で訴え続けていた。何かその姿は非常に哀れさか弱さを感じさせついつい引き込まれそうになる。というかここを立ち去れなくなっている。
やはり容姿に非の打ち所がないというのは強力な武器だ。なにしろ俺の足は動こうとしないのだから。とは言え俺は何を言うわけでもなかった、ただ立ち去らないだけ。どうすればいいか分からないから。
じきにその女子はなにを言っても通じないと悟ったかのように黙り込む。そしてほんの直後、
「みたあなた」と日本語で言った。
即座に分かった。昨日見たから分かるだろうというわけだ。いよいよ見捨てにくくなってくる。いい加減学校に向けて自転車をこぎ出さないと遅刻的手遅れになるのは必至だ。
「分かっている」と俺は言った。ただし慌てて付け加えた。
「もしかしたらダメかもしれないぞ」
この時俺の頭の中に一人の女子の名があった。あの女子に頼めばあるいは……いけるかもしれない。
俺は反射的に〝では夕方に〟と言おうとして言う前に気が付いた。もし昨日の男がこの女子を捜し回っているのなら夕方までの長い時間こそが危ないのではないか。
「いや、待て、待ってくれ。俺の学校まで来てくれ」と言っていた。実際に来てくれた方がより説得がしやすくなるかもしれない——。とその時その女子が口を開く。
「天から石、驚く、ほど、速さ、落ち、てくる……」とたどたどしく言い、少しだけ間を置き、指を組み両掌を合わせ、
「のです」と言ってその両掌を顎のすぐ下辺りに。そして目を閉じ顎を引き顔をうつむき加減に。
思わず空を見上げた。
〝隕石でも降ってくる〟のか?
もちろん何も落ちてくる様子は無い。助詞が省略されていてなんだか分からない。困るだろ! んなこと言われても。
そんなことを考えている間もその女子はうつむいたまま。俺は確認する。
「天から石が驚くほどの速さで落ちてくる……のです、ですか?」と尋ねる。
もしやこれは予言か? と一瞬身構える。だがその女子は顔を上げ再びにっこりと俺に向かって微笑んでくれ「はい!」と返事をしてくれた。この顔には邪気がまるで無い。その顔に見とれて『その後どうなるの?』と訊くタイミングを逃した。
解った! 〝隕石が頭上に落ちてくるくらいわたしは危機的状態にある〟と、そう言いたいのだな。ここまで舟に乗ってしまった以上はしょうがない。なんとかこの人の希望が叶うよう助けなければ。俺は決意した。
と、ここで俺はさらに困ったことに気がついた。学校へ行くには自転車を使わねばならないが、二人乗りで行くわけにはいかない。しょうがないので俺は自転車を押して学校へ行くことに決めた。
今朝やけに無駄なくらいに早起きしたってのに、もはや完全な遅刻だな。
俺は自転車をほんの少し押し進め、振り向き、その女子に手招きをした。『着いてきて』という意味だ。そのジェスチャーが理解されたのかその女子は一歩二歩と自転車が進んだ分ほんの僅かの距離だけ着いてきて止まった。これから女子といっしょに二人で登校だ。並列じゃなくて直列歩行だけどな。
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