燭台持ちは歌わない
下村アンダーソン
序章:夏闇(1)
祭囃子が幽かに孕んだ童女の歌に呼ばれるようにして、私は夕闇へと踏み出した。七歳の夏のことだ。
お面を買ってくる、という私の言葉を、母は疑わなかった。等間隔に吊られた提灯のあかりの下で、普段どおりの穏やかな笑みを浮かべていたのを覚えている。
「ひとりで行く」
と付け加えると、母は少しだけ驚いたような顔をしたが、すぐさま平静を取り戻して、
「いってらっしゃい。気を付けてね」
言いながら、小銭をいくらか取り出して、握らせてくれた。私をどこかへ送り出すとき、母はいつでもそう言う。千紗、気を付けてね。
黙って頷いてみせながら、彼女には、いや、周囲の誰にも、歌は聴こえていないのだと、幼い私は直感していた。子供にだけ通じる魔法。本当は聴こえてはならぬものだという認識も、心の片隅にはあったに違いない。ただその声は、流れくる歌声に比べれば、あまりにも小さく、か細かった。
身を翻して人混みに紛れ込む。祭客が密集して、私の姿を覆い隠した。母はしばらくのあいだ、こちらをじっと眺めていたが、不意に視線を逸らした。
人混みをすり抜けた。四方を見渡しながらゆっくりと歩く。安っぽい桶の内を泳ぎ回る金魚の群れ。ビニールプールに浮かぶ色とりどりの水風船。斜め向きの台に突き立てられた林檎飴。
夏祭りの思い出は、後にも先にもこの一度きりだ。なぜこの年だけ行きたがったのか、今となってはまるで思い出せない。はしゃぐのが苦手な子供だった。他の子のように振る舞うのが気恥ずかしく、家に籠りがちだった。遊びや勉強を教えてくれたのは、母だったろうか。あの頃は仕事に出ていたから、それほど付きっきりだったはずもないのだが――。
ともあれ、いつにない私の態度は母を喜ばせたのだろう。出掛ける前に、真新しい浴衣を着せてもらえた。それは私の人生における、最大級の贅沢品だったと思う。同じ年の冬には手放さざるを得なくなる、あの薄紫の、花模様があしらわれた浴衣。
お面の屋台は列のいちばん端だった。おかめ、ひょっとこ、狐、古いアニメのキャラクターといったありきたりな顔がずらりとこちらを見下ろしていたが、その中にひとつだけ、一風変わった面があることに、私は気付いた。
黒髪を綺麗に切り揃えた少女の顔。色白で、人形のように取り澄ました表情。見たことがないには違いないのに、懐かしさに胸がざわめくような――。
歌い女。澄んだ、それでいてふくよかな歌声。
聴こえている。
「――様だよ」
と誰かが言った。
「歌っていらっしゃる」
中空に視線をさまよわせながら、これが? と問い返したが、返事はなかった。ただ、お前には分かっているだろう、とでも言うように、童女の歌がいっとき、抑揚を増した。
蠱惑された。胸苦しいほどだった。
私にはやはり、この歌が聴こえる。
しかしその魔術めいた瞬間は、不意に絶えた。白髪交じりの店主が、お嬢ちゃん、と叫びながらこちらへ出てこようとしていた。よくよく確かめてみれば、売り物の面の中に、あの少女の顔はもはやなかった。私は小刻みにかぶりを振って、逃げた。
立ち並ぶ露店の灯りが後方へと去る。喧騒がいまだ耳に届いてはいたものの、すでに意味を結ばなくなっていた。思考を占めるのは、ただひとつの声、ただひとつの旋律のことばかり――。
黙々と、憑かれたように歩き続けたと記憶している。足音が邪魔にならないようそろそろと、しかし心の急くままに急ぎ足で。
どれくらい歩いていたのかは判然としない。ようやっと立ち止まったのは、頭上に揺れていた赤黄色の燈も、華やかな着物姿も、笑い声も、いっさいが遠ざかって、すっかり消え失せてしまってからだった。
祭りの輪を離れ、黒々たる山に近づき、小ぢんまりとした登り口を見出し、石造りの階段を上がり、やがて足元が土に変わり……そうして進んできたのだという認識はおぼろげにあったが、幼い自分がぽつんとひとりきりでいることには、長らく気が付かずにいた。
日没間際の空に、深い夜の色が混じりつつあった。煙のように纏わりついてくる空気は生ぬるかったが、体の芯は冷え切っていた。背筋を湿った手で撫で上げられたような感覚を、今さらのようにおぼえていた。
ただでさえ暗い視界を木々の枝に遮られているせいか、厭な圧迫感がある。山の胎の中に抱かれているような気がした。時間をかけて息を吐きだす。額に貼りついた前髪を手櫛で流してから、その場で足踏みを繰り返した。
誰が引き返すもんか、と声に出して言ったのだと思う。
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