衝撃(3)

 永峯氏の話が終わった。即座に応じるすべを私は持たず、しばらくのあいだ、ただ沈黙を守った。氏が嘘を吐いているとも、出鱈目な物語をかたっているとも思わなかった。私を信用しての、不器用な内面の吐露。しかし――。

「その記憶はどのていど正確ですか。疑っているわけではないんですけど、その」

「いや。俺だって分かるよ、そっくり信じてもらえるような話じゃないことくらいは。ただ、客観的な事実を示すことは出来る。たとえば伶の迷子を確信して届け出をした時間、そのとき対応してくれた係員の名前、俺が山の入口に至った時間、下りることを決めた時間、そういったことなら答えられる。改めて警察に話さなきゃならないと思って覚えておいたんだ。なんならこの場ででも」

「疑ってないですよ。そのとき着けていた腕時計、それと同じものでしたか」

 氏の左手首のあたりを見やって訊ねる。彼はすぐにかぶりを振って、

「これを買ったのはもう少し後だった。でもなぜ?」

「暗い山の中では針が見にくそうだなと思って。詳しくないですけど、それ、アウトドア向きの時計じゃないですよね」

「確かにそのとおりだ。子供を祭りに連れていくような場面では選ばない。着けていたのは――」

 氏はすぐに私の知らないモデル名を言った。現物もまだ手許にあるそうだ。習慣はそう変わるまいし、これ以上彼の記憶力に疑問を呈する気にもなれなかった。彼なりに真実を語っていると見做すほかない。ではどう説明する? 互いを知るはずも無かった伶と私の、偶然とは思えない――。

 背後から閃光を感じた。思わず首をひねって振り返る。いつからか車高の低いスポーツカーが、ぴったりと着けてきているのだった。闇の中、ヘッドライトが酔ったように左右に揺れている。

「ポルシェで煽られるというのもなかなか珍しい体験だな。どんな奴が乗ってる」

 永峯氏がミラーに視線をやり、吐息交じりに、

「餓鬼か」

 途端に相手の車が動きを激しくしたので、私の視界に入ったのは運転手の頭部のみだった。なるほど青年と思しい、寝乱れたような茶髪。

「こっちはなにも悪いことはしてない――ですよね?」

「そのはずだよ。珍しいものを見ると条件反射で挑発したくなる人種なんだろう。どうしようもないな」

「今さらなんですけど、この車ってポルシェなんですか」

「そうだよ。知らなかった? せっかく君とのドライヴだからと張り切ってたのに、これじゃ台無しだ」

「どうしたらいいんでしょう」

「君は安心して寛いでいてくれればいい。振り切るなり、捲くなり、適当に対処するよ」

 遠くのほうに歩行者の姿がある。ひとりでこちらに向かってきている様子だ。人通りの少ない、だだっ広い道である。氏はハンドルを握りなおし、

「あれが――」

 行き過ぎたら、とでも続けるつもりだったのだろうが、その声はエンジン音に掻き消された。唐突に後ろの車が速度を増して、私たちを追い越したのである。正直なところ、その時点での私としては不愉快さよりも安堵が勝っていた。氏の横顔にも表面上、苛立ちは浮かんでいなかった。私にはそう見えた。ともかくこれで平穏さが戻る。行っちゃいましたね、と言いかけた瞬間、甲高い音が響き渡った。悲鳴、あるいはブレーキの軋み。

 スポーツカーが滑るように進路を変えて、歩道に乗り上げた。飛び込んだ、と言うべきかもしれない。鈍い衝突音。私は呼吸を忘れた。

「嘘だろう」

 氏が呻き、ブレーキを踏んだ。路肩に急停車する。

「撥ねたのか」

 ガードレールに突っ込んだままの姿勢で蹲っていたスポーツカーが突如として息を吹き返し、二、三度切り返して、再び車道へと下りた。瞬く間に速度を上げて走り去っていく。歩道には――倒れ伏した人影が取り残されている。

 ドアを開く。私はポルシェから転げ出た。氏よりも先に被害者に駆け寄った。電灯の白々とした光がその体を照らしている。一見して外傷はない。出血もない。屈んで顔を覗き込み、初めて発覚した事実に愕然とした。

「環さん」

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