衝撃(2)
今でもよく覚えている。金魚すくいやら、水風船やら、林檎飴やら、そういうものひとつひとつに興味を示しては、楽しそうに笑っていた。君は信じてくれないかもしれないが、その頃の伶は快活で、明るい子だったんだ。祭りの終盤になって、あの子は俺に言った。お面を買いに行くから、小遣いが欲しいと。どれが欲しいんだ? と訊いたが、伶は答えなかった。ひとりで行ってくると言うんだな。ちょっとしたお使いに行かせるつもりで、俺は小銭を渡した。気を付けて行ってくるんだよ、とだけ言って、送り出した。本当に軽い気持ちで。
伶は戻ってこなかった。あれこれ見て回っているんだ、面白そうなものがたくさんあるからな、と自分に言い聞かせたが、それにしたって遅すぎた。四歳の女の子がひとりで。不安になって、あちこち探し回った。どこにも見つからない。俺はすっかり青褪めて、迷子の届け出をした。しばらくしてこういう目撃証言が入った。お宅のお嬢さんかどうかははっきり分からないが、ひとりで山のほうへ向かっていく子供を見たと。俺は場所を聞き出して、行ってみることにした。
細い山道だった。視界も足元も悪い。大の大人の俺でさえ不安を感じるくらいだ。子供がこんなところに近づきたがるだろうか。しかし他に手掛かりはなにも無かった。登ってみるほかないと腹を括って、上を目指すことにした。
なにが困ったって、とにかく前が見にくいんだ。なんの準備もせずに来てしまった。せめて懐中電灯くらい借りてくるべきだったと後悔したよ。灯りになりそうなものと言ったらライターくらいしか持っていない。当時は煙草を吸ってたんだ。もちろん点けてみた。しかしちっとも役に立たない。片手が塞がってしまうほうがかえって危険だと判断して、そのうち消した。中途半端に火に目を慣らしてしまったせいで、急に真っ暗になったような気がした。
なにも見えない。なにも聞こえない。
どれくらい時間がかかったのかは思い出せない。なんの目印も無い、どこへ続いているのかも分からない、そういう道を彷徨いつづけて、俺は泣き出しそうになっていた。こんなところまで子供が登ってこられるはずがない、そう判断した。引き返さなければ自分の身さえも危ないと感じていたんだと思う。俺は山を下りることにした。相当な距離を上がってきたわけだから、下りるにも時間も労力もかかる。どうにか下山したときには祭りは終わって、人はほとんど捌けていた。情けなさと、無力さと、後悔と、そういうもの全部に打ちひしがれたよ。運営側の人間やら警備役の警官やらも総出であちこち探し回ってくれていたが、やはり伶は見つからなかった。
煙草を吸わせてくれと言って輪を離れた。ひとりになった途端に泣き出した。どうしようもなかったんだ。本当にどうしようもない――駄目な父親だ。四歳の娘を。
そのときだ。視線を感じて、俺は顔を上げた。あの瞬間のことは忘れようもない。暗闇の中に、冷たい目だけが浮かんでいるように見えた。動けなかった。まるで化物に睨まれてでもいるようだった。
黒い影だった。人の姿をしていたような気もするが、はっきりとは分からない。顔は見えなかった。目だけだ。あれが伶を連れ去ったんじゃないかと思った。俺は怯え、声すらも上げられなかった。
ふと我に返ると、目の前に伶が立っていた。出掛けに着せた、あの黒い浴衣姿のまま。俺は訳も分からないまま、駆け寄った。なにより先に、戻ってきた娘を抱きしめたかったんだ。
伶を抱き上げた。俺の顔の間近に伶の目があった。
爛々とした目だった。伶の目が湛えていたのは、さっき俺を見据えていたあの目と同じ光だった。身震いがした。それでも表面上は娘への情愛が勝って、俺は訊いた。どこへ行っていたんだ。
神様のところ、と伶は答えた。神隠し――そんな馬鹿なことがあるわけないと頭では理解していたが、内面ではまったく否定できなかった。むしろそれが、いちばん相応しい説明のように思えた。
正直に言おう。俺は疑ってはいけないことを疑いはじめた。ここにいる伶は本物の伶なのか? 今、腕の中にいるこの子は、本当に自分の娘なのか?
あの夜を機に――と決めつけるべきじゃないのは分かってる。ともかく伶は変わってしまった。言葉少なに、はっきりと他人を避けるように、今までとはまるきり人格が変貌してしまったように、俺には受け取れた。
もちろん合理的な解釈を放棄したわけじゃない。想像したくはないが、なにか酷い目に遭った結果としてそうなったんじゃないかとも考えた。病院にも連れていったし、検査も繰り返し受けさせた。しかしどこにも異常は無かったんだ。年齢が上がるにつれて幼少期の性格が変わるなんてのは不思議でもなんでもない。そう、難しい時期なんだ。いつまでも素直に父親を慕ってくれる娘なんていない。俺は必死にそう思い込もうとし、実際にそういう態度で伶に接しつづけた。
結果は今のとおりだ。十歳かそこらの頃から非行が始まった。止めようとした。言って聞かせようとした。しかしそのたびに、伶は俺を見つめるんだ――あのときと同じ目をして。
なぜ伶を好きにさせているのか、という君と十和子の問いにどう答えるべきなのか、俺はいまだに考えあぐねている。俺ごときがどんなに必死になったところで、伶を従わせることなんか出来はしないという――率直に言えばそういう確信がある。主導権を握っているのは伶で、俺じゃない。いつそれが移ってしまったのか、伶はなぜ変わってしまったのか、どうしても、何度考えてみても、俺はあの夜に行き着かざるを得ないんだ。子育てを間違った男の言い訳と、責任放棄と思われるには違いない。なにもかもが俺の過ちで、俺の咎だ。分かってる。
しかし恐ろしいことに、なにかが伶に成り代わっているんじゃないかという妄想が、ずっと消えずに俺の中に居残っているのも事実なんだ。本当に馬鹿げていると思うだろう? でもあの夜からずっと、それは俺に憑りつきつづけているんだ。
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