衝撃(4)

 薄らとその両目が開いた。瞬いた。呼吸はある。彼女は唇を震わせるようにして、

「千紗さん? 私は」

 環さんが体を起こそうとする。動かすな、という永峯氏の声が聞こえる。押し止めようとした私を、彼女のほうから遮って、

「ぶつかってはいません。怪我はしていませんから。ただ驚いてしまって。立てます」

 伸べられた手を掴んだ。か弱いが、相手の握力は確かに感じられた。しかし膚は怖ろしく冷たい。

「平気ですから。すみません。ただ少しだけ、落ち着くまで」

「うん。良かったよ、良かった」

 彼女がようやく笑みを見せた。私に縋りつくようにして立ち上がる。本当に無傷のようだ。少しずつ安堵が込みあげてきた。頭蓋の内側をけたたましく飛び回っていたものが、ゆるゆると速度を失っていくようだった。

「友達か?」

「久世環さん。さっき話したひばりの後輩」

「そうか。とりあえずは――大丈夫そうで安心した。せめて家まで送ろう。千紗、手を貸してあげて」

 氏はポルシェの運転席へと戻っていった。行こう、と環さんを促し、ふたりで後部座席に着いた。

「環さんちってこの近所?」

 という私の問いに彼女は直接答えず、運転席へと声を張って、

「湊本さん」

「――お父さん。環さんが」

 私の呼びかけに、氏ははっとしたように、

「ああ。どうしたの」

「本当にお世話になります。行っていただきたい場所があるんです。家ではありません。もともとそこへ向かう途中だったんです」

「だけど……こういう事故があった直後だし、われわれからもご両親に報告させてもらいたいんだよ」

「約束があるんです。どうか龍燈神社へ連れていってください。お願いします」

「龍燈神社? 今から?」

「私を待っているんです。どうか龍燈神社へ」

 静かだが、頑として譲らない口調だった。永峯氏は車を動かしはじめた。迷っていたのだろうが、彼はやがて穏やかに、

「分かった。ひとまずは君の言うとおりにする。後日、改めてお話をさせてもらうよ。怪我が無かったのは幸いだったが、あれはあまりにも悪質だ」

「それで構いません。私からも家族に話します。ご心配おかけして申し訳ありません。ただ今は、どうかまっすぐに龍燈神社へ」

 よほど重要な案件なのだろうと理解はしたものの、譫言のように繰り返すその調子がどこか空恐ろしくも聞こえ、私は息苦しかった。龍燈神社。待っているというのは誰だ。そして約束とは――。

 ふとバックミラーに視線をやり、私は息を詰めた。映りこんだ環さんの双眸が――それだけで薄闇に浮かんでいるように見えたのだ。赤く昏い、宝石のように無機質な光。

「あと二十分もあれば着くから」

 車が進路を定めたことを悟って安堵したのか、環さんが楽な姿勢を求めて私に体を預けてきた。ひばりには頻繁にそうされたり、反対に私からしたりもしていたから、行為自体はべつだん不快ではなかった。しかし寄りかかられた瞬間、手だけでなく体さえも冷たいことを知って私は戦慄した。体温と呼べるものがおよそ感じ取れない。

 これが生者の肉体なのか。

 私は正面を向いたまま、横目で環さんの様子を伺った。動かない。会話も無かった。その端正な横顔を、窓外の光が撫で上げる。影が落ちる。

 暗がりに、白い膚の色だけが鮮やかだった。そうしている時間があまりに静謐だったものだから、まるで人形と隣り合ってでもいるように感じはじめた。やがて彼女の頭部が傾ぎ、堅い頬が私の肩に触れた。今にも罅割れて砕けてしまうのではないかと恐怖した。

「千紗さん」

 という囁きが不意に、頭蓋へと木霊した。発話されたものとは思えなかったが、環さんの唇がそう動いているようだった。

「私はやはり、器ではないようです」

「え?」

 と囁き声で私。

「本来選ばれるべき人間が、別にいたはずなんです」

 尸童の話だとようやく察した。どう応答してよいか咄嗟に判断が付かず、

「誰」

 静寂。ややあって、またしても訪れる木霊。

「ひとりは死にました。もうひとりは」

 言葉が途切れる。時間が凍り付いてしまったかのように、環さんは静止していた。声のみでなくわずかな体の動きまで止めているようだった。呼吸さえもない。

「千紗さん、お祭りの正式名称をご存知ですか」

 ややあって、唐突に話を再開したかと思えば、そんなことを問う。

「知らない。ムジカ様、は愛称だよね」

「――天命祭と。そう言うのです」

 車が速度を緩める。

「もうじきだ。手前の駐車場で停めるよ」

 という永峯氏の声。環さんがすっと私から離れ、今度は聞き違えようのない肉声で、

「ありがとうございました。そちらで大丈夫です」

 気付かなかった。もうそんなに近くまで来ていたとは。

「本当に、お世話になりました」

 車から滑るようにして下りると、環さんは丁重に頭を下げ、また下げて、それから思いのほか機敏な仕種でくるりと身を翻した。あとは振り返りもせず、跳ねるように階段へと向かっていった。あたりを淡く照らし出している光と光の隙間、わずかな滲みのような暗がりに、彼女の小さな背中が溶け込んで、見えなくなった。

「帰ろう、今度こそ」

 と運転席から氏が言った。はい、と私は頷いた。

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