聖別(1)

「――環ちゃんが?」

 ひばりが若草色のクッションの上で体を揺らして、こちらに顔を近づける。丸くした目に驚きとも怒りとも好奇心ともつかない複雑な表情を宿らせ、

「なんての? 轢き逃げ未遂? そういうのってあるのかな」

「実際に接触はしてないからなんとも――でも物凄く悪質な運転だったのは間違いないよ」

「酔っ払い?」

「かもしれない。どう見ても普通の運転じゃなかった」

「最悪。なんにしても、環ちゃんと千紗とお父さんが無事で良かったよ。一歩間違ったら大事故だったかもしれないわけじゃん」

 朝霞家の、ひばりの自室だ。彼女らしいパステルカラーを基調とした明るい印象で、遊びに来るたびに気分が華やぐ。ドアを開けると淡く立ち込める柑橘系の香りも、本棚や机の空きスペースに整列しているぬいぐるみも、私は好きでならなかった。どんな話をするときでも、気分が暗くなりにくい。

「そうだよね。うちの車もずっと煽られてて、怖かった」

「びびるよね。うちって軽だし、特にお母さんは安全運転志向だから、けっこう煽られるんだよ。あれってどういう頭でやってんだろ」

 スポーツカーの動き、そしてポルシェの車中で感じた恐怖を脳裡で反芻する。アルコールあるいはドラッグで酩酊していたとして、ああした走り方になるものだろうか。歩道の人影を認めた瞬間の加速、急激かつ乱暴な進路変更、そしてスリップ。

「ぶつかってないにしてもさ、目の前で倒れた人のこと無視して行っちゃったわけでしょ。絶対まともな奴じゃないよ。きっちり落とし前つけさせてやりたいとも思うけど、関わり合いたくない人種だって気もする。そのへん、久世家はちゃんとやるだろうけどね」

 そうだろうと思う。あくまで一瞬での判断だが、運転者はどこといって特別なところのない、ありきたりな不良青年といった風情だった。市内でも有数の権力者らしい久世家を相手に出来る存在ではないだろう――背後により大きな誰かがついていた、という話でもなければ。

 久世家側の勝利を確信していると思しく、ひばりはそれ以上スポーツカーの若者に言及しようとはしなかった。小ぶりなフォークを器用に使ってフルーツケーキを口許へ運んでは、しきりに私たちが無傷だったことに安堵した旨を繰り返す。私はしばらく彼女の弁に耳を傾けていたが、思わず、

「あんな目に遭って平常心でいられるわけないのは分かってるけど、環さん、少し様子が変だった気がするの。勘違いなのかな」

 ひばりはケーキの最後の一切れを呑み込んだあと、うーん、と間を置いて、

「環ちゃんってほら、ああいう感じじゃん。昔からなんだよね。感情を表に出さないっていうか、辛いとかしんどいとかも言わないし、内面が分かりにくいとこがあるからさ。凄く怖かったんだろうし、千紗とお父さんが駆けつけてくれて安心したんだとも思うよ。ちなみに様子が変って、どう変だった?」

「約束があるって連呼して。けっきょくお家じゃなくて龍燈神社に送っていったんだけど、凄く必死そうだったから、なんとなく」

 ひばりは腕組みし、

「龍燈神社か。環ちゃんの場合だと、本当に大事な約束だったんだと思う。時期が時期だしね。怪我してない、だったら行かなきゃって思考が先に来たんじゃないかな。たぶん」

「そうかな。だったらいいんだけど」

「条件反射的につける優先順位って、意外とそんなもんじゃない? 試験やライヴやイベントだったらもちろんだけど、友達のとこに行く程度の約束だって、そういう意識が先立っても不思議じゃないと思う」

 ノックの音がして、ひばりのお母さんが入ってきた。紅茶、クッキーの盛られた器、それから袋入りのスナック菓子を置き、のんびりしていってね、と私に声をかけて去っていった。ひばりはすぐさまクッキーに手を伸ばして、

「これって失礼な言い方になるのかな。環ちゃんってああいう感じじゃん。見た目も。浮世離れしてる感じ、言動に現実味が伴ってない感じが、なんとなくあるって私も思うのね。お話かお芝居の世界から抜け出てきたような雰囲気でしょ。だから環ちゃんを良く知らない人の目には特に、変わった子に見えるって一面はどうしてもあって。千紗が変だって言ったのも、もしかしたらそれじゃないかなって気もしたんだ」

「そうかも」

 私は短く答えて、紅茶に一口つけた。熱くないよ、と教える。

「ねえ、ひばりは子供の頃の記憶ってどのくらいある?」

「急にどうしたん」

「なんとなく。四歳とか五歳とか、でなければ小学校低学年とか、そのあたりの記憶ってどのくらい鮮明?」

「私は昨日のことですら曖昧だよ。自分の短期記憶をまったく信用してない。むしろ度忘れの達人を自負してる」

 私の表情の変化を見て取ったのか、ひばりは重ねて、

「そういう話じゃないって?」

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