聖別(2)
「うん。物心がついてから、今と地続きになったって確信できるまでの、あいだの時間ってあるでしょう? その期間の記憶。たいがい忘れちゃってるにしても、はっきり覚えてることも少しはあると思うの。それにどの程度の確信を持ってるかって意味」
「なるほど。千紗の場合のそれってさ、たぶん誰も気にしないような、千紗ひとりの頭から消えたら、それで世界から消えたことになっちゃうような話じゃない?」
「私ってそんな感じ?」
「そんな感じ。ムーミンの絵本だったかな、こういう話が出てくるの。その年最初に見た蝶が白だったら、穏やかな夏になる。黄色だったら、確か楽しい夏。黒だったら――分かるっしょ? 私はそれを真に受けてさ、蝶の占いを毎年やってた。だけど本当にその色の蝶を見たのかとか、実際にその夏が楽しかったかとか悲しかったとか、そんなの今になったら確かめられないじゃん。私も忘れた。ムーミンの影響で蝶々占いをやってたってことしか覚えてない。でももしね、もしそのとき千紗が一緒にいたら、あの年は白だったよ、黄色だったよ、って断言してくれそうな気がするの。家族で旅行に行ったとかプールに行ったとかバーベキューしたとか、そういうことは全部忘れても、蝶の色だけは覚えてそうな感じがするんだよ、私にとっての湊本千紗は」
「そんな風に考えたことない」
首を傾けて考え込んだ私に、ひばりはいつもの快活そうな笑みを向け、
「だからイメージ。さっきの質問に答えるなら――やっぱり曖昧だな。夢と現実の区別だってつかないかもしれない。保育園のお遊戯会でなんの役をやった、運動会で何等賞だった、なんてのは客観的に証明できるけど、記憶ってそれだけじゃなくて、それこそさっきの蝶々占いみたいな、当人以外にはどうだっていいディテールの集積なわけじゃんか。思い出も証明できなかったら夢と変わんないし、夢でも現実でもどっちだっていい。私にとっての真実がそうなら」
このように突飛な、あるいは虚実を区別しない夢想じみた言動を、ひばりはときおり披露する。彼女特有の世界観と言ってもいい。もっとも誰彼構わず公言しているというわけでもないらしく、この世界観を認識している友人はそう多くないようだ。単に親しいから内面を見せてくれている、といった感じでもなさそうで、私には不思議に思える点のひとつだ。
「たとえば四歳の頃、確実にこの家に住んでたっていうのは現実?」
「証拠になりそうなのは、そうだなあ。毎年誕生日に、身長測って柱に印を付けてるんだよ。ひばり三歳、四歳、五歳……十七歳って。同じ柱に妹、つぐみの印も付いてる。当時の写真もたくさんある。でも記憶でだけ判断しろって言われると難しい年齢だね」
「私――自分がいつどこにいたっていう感覚が薄くて。お母さんに抱えられて、いろんな場所を転々としてたから。それこそ最近まで」
「千紗、家族のこと話してくれたの、今日が初めてだよね」
私は小さく顔を上下させ、
「ごめん。ただ――余計な気を使わせたくなくて」
「分かってる。これは勝手な推測だけど、千紗って小さい頃から、凄く悲しいとか、凄く淋しいみたいな強い感情を、頑張って抑え目にしてたんだと思う。感情を波動のまんま直接的に吐き出すってことをしないで、言葉にしたり形にしたり、そういう努力をしてきたんじゃないかなって。記憶ってけっこう、感情と結びついてる面があるじゃんか。幼い頃の強い感情と記憶が一緒になって、心の底に仕舞い込まれたままで結晶化してる。そんなイメージがあるんだよ」
一理あると感じて抗弁しなかった。いや一理どころではない。私の内心にまつわる解説としてこの上なく的確だという気さえし、私は驚きのまなざしで友人を見返した。その視線に気付いたのか、ひばりは照れたように頬を掻いて、
「イメージ、イメージって想像ばっか膨らませちゃうの、あんまり良くないね。千紗はわりと許容してくれる――もっと言えば、私みたいな考え方を受け入れてくれる、共有してくれるって思えるから、つい」
私はその言葉がなんとはなしに嬉しく、こちらも照れたようになって視線を伏せた。幼いころからずっと傍にいて、同じ色の蝶を見た夏の幻想を共有できたならどれだけ楽しかったろう、愉快だったろうと想像を巡らせる。これからは素敵な幻を共に見られたらいい、彼女の目に映らないものは見えないままでいいと思い、そのときはたと、脳裡になにかがよぎった気がして顔を上げた。
ひばりはちょうどドアに視線を向けており、私の視界に入ったのはその後頭部のみだった。またしてもノックの音。お母さんがちらりと顔を覗かせて、
「観てる? 始まってるよ」
「そうだった、ありがとう」
応じるなり、ひばりがテーブルの上にあったリモコンに手を伸ばした。小さなテレビの電源が灯った。早回しされるチャンネル。時計は午後六時を少し過ぎたところだ。
屏風型の、金色無地の背景。その手前、中央に座っている制服姿の少女は――環さんだ。左右を囲んでいるのは市長と、猛禽のように鋭い目をした老人。おそらくは彼女の祖父だろう。「天命祭『尸童』に久世環さん」というテロップが隅に表示されている。
「やったあ」
ひばりが掌を打ち合わせる。画面の中の環さんはさすがに硬い面持ちで、身に余る大役を、恥じないよう精一杯、といった調子。緊張しきった様子の彼女より、隣に陣取ったお祖父さんのほうが誇らしげに見える。
「やっぱり環ちゃんだって。信じてた」
いつの間にか傍に来ていたひばりが、はしゃぐように私の肩を揺さぶる。うん、うん、と応じながらも、私は画面からまったく視線を逸らせずにいた。
カメラに向けて作られた、環さんの強張った笑み。表情を宿さない赤黒い双眸。
燭台持ちは歌わない 下村アンダーソン @simonmoulin
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