父と娘(2)

 しばらくして本当に永峯氏が現れた。職場から抜け出してきたと思しいスーツ姿だ。長身に、精悍で彫りの深い顔立ち。珍しく息を乱している。慌てて駆けつけてくれたのだろう。呼吸を整えるようにゆっくりと歩いて交番内に入ってくると、ネクタイの結び目を引き上げて、

「娘がお世話になりました」

 と警官に深く頭を下げた。続いて、立ち上がっていた私に視線を向け、

「災難だったな」

 名優が子役に話しかけるような洗練された口調だった。来てくれて、と言いかけたのを遮るように、氏は私に顔を寄せて笑み、

「大丈夫だ。帰ろう」

「その――本当に」

「話は後でいい。怒ってないし、迷惑がってもない。当然だろう」

 小声でそう付言し、私から離れた。話が終わったと見たのだろう、警官が改めて永峯氏に向かい、

「お父さんですね。娘さんにもお伝えしたんですが、落とされたというお財布が届きましたら、改めてご連絡差し上げますので。取りに来られる際はいちおう、身分証明となるものを――」

 説明を聞き終えて、私たちは交番を辞した。歩きながら、

「すみませんでした、お忙しいのにお呼び立てして」

「気にしてないって言っただろう。それより、口調がさっきまでと違うぞ」

「父が迎えに来ると警察で言ってしまったので、敬語では不審がられるんじゃないかと思って咄嗟に――失礼な口の利き方をしてしまいました」

「俺のほうでは劇的な感動を覚えていたのに。ついに君からお父さんと呼ばれる日が来たのかと」

 氏がおどける。どう応じていいものか判断が付かず、私はいったん黙り込んだ。橋を渡るともう駅が見えはじめる。直線距離では存外に近い場所まで来ていたのだ。

「こっちだよ。車だ。下の駐車場に停めてあるから」

 手招かれ、後に続いて地下へと下りた。氏が黒いクーペに近づく。彼の所有する五、六台のうちのひとつである。私の知識では車種までは分からない。グレードの高いなんらかの外車なのだろう、といった程度だ。

 後部座席に回ろうとして、二ドアであることに気付いた。助手席へ、と促された。そっと乗り込むと、滑らかな黒い革のシートに体を受け止められた。車が発進する。車道に出た途端にスピードが上がった。目覚ましい加速だった。

 走行は快適そのものだった。他の車両が自発的に私たちに道を譲っているような気配さえある。あらゆる意味で特権的な車なのだと感じた。

「財布になにが入ってたか、確認させてほしい」

 と運転席の永峯氏が警官と同じことを訊く。

「現金がたぶん二千円くらいと、定期と、服屋のポイントカード、それから――」

「学生証や保険証は?」

「別です。保険証は家に。学生証はここに」

 バッグの小ポケットを押さえると、氏はハンドルを握ったまま頷いて、

「ならいい。定期は再発行だな。確か中身だけ引き継ぐ制度があったと思う。使えるならそれを利用しよう。あとはそうだな、服屋のポイントはどれくらい貯まってた?」

「スカート一枚ぶんだけです」

「いま穿いてるそれ?」

「はい。友達と、駅ビルで買いました」

「切り上げて補填しよう。十万でいいか? もちろん同じ店じゃなくてもいい。なんでも君の好きな服を」

「そんなに要りません!」

 と思わず叫ぶ。永峯氏は笑って、

「俺は家族に不自由はさせたくないし、綺麗でいてほしい。勝手な願望だよ。財布も無いと困るだろう。もちろん別に買ってあげるよ」

「そう言われても――どうしたらいいのか分かりません。そもそも財布を失くしたのは私の失敗なのに」

「じゃあこうしよう。君は自分のミスで俺を呼び出した。代わりにドライヴに付き合ってほしい。こういう機会でもなければ頼めないからちょうどいい。君は俺からプレゼントを受け取り、一緒に食事をする。それでチャラにしよう」

 高速道路に乗った。どこまで行くつもりかとは訊ねなかった。道は順調に流れている。ぼんやりと外に視線を向けて、規則的な景色が飛び去っていくのを眺めていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る