父と娘(1)
行きに見た看板だ、と喝采しかけて、自分の直感ほど当てにならないものはないと思いなおして足を止めた。傍らを通り過ぎる人々はみな速足だ。金曜日の夕方である。私は目を細め、改めて看板を凝視した。
たまにはひとりきりの散策も悪くない、それはそれで新しい発見があるだろう、といった当初の気概は、無意味に歩き通したこの数十分で霧散していた。今は一刻も早く見覚えのある場所に戻りたいとだけ願っている。
自然と溜息が出た。これといって、迷うような歩き方はしていない。駅からまっすぐに進み、適当な場所で引き返した。本当にそれだけである。行き帰りでルートが多少違ったとしても進行方向さえ正しければ駅前へ出られると安易に考えた。直進している感覚は常にあったから、そのうち、と楽観して歩き続けてしまった。どこで方角を誤ったのかも、今自分がどこにいるのかも、まるで見当がつかない。
頭上の看板の色は記憶と合致している。では社名はどうだったかと考えはじめると途端に自信が失せる。これ以上思い付きに任せても状況は悪化するのみだろう。どこかに案内板でも出ていないものか。あるいは交番。
変な街だな、と捨て鉢に考えた。高層ビル群の前を進んでいたかと思えば、いつの間にか飲食店や酒場が連なる細い路地に迷い込み、抜け出せば商店街の真ん中、といった調子で、景色は目まぐるしく変化してきた。その変な街のどこかに自分の通う高校がある。駅の東口から出てバス停の何番乗り場、あとは校門の真正面に着くまで座っている、というだけの知識で、漫然と三か月も通い続けてきてしまった。
さすがに疲れ果てて、喫茶店で休憩しようと思い立つ。セルフタイプのカフェに入り、奥まった座席に着いた。
一息つき、バッグを探ってみて、嘘、と洩らした。はっきりと顔色を失った。
財布がない。
普段と違うポケットに仕舞ったか。内部を検める。やはり見つからない。改札を出たときは確かにあった。それから? どんなに注意散漫だったとしてもバッグに戻す以外の動作は取りえない。では落としたのだろうか。元来た道を――戻れないから困っているのだ。
慌てて店を出て、今度は血相を変えて交番を探した。真剣になると見つかるものだ。駆け込んで財布は届いていませんかと訊ねた。応対してくれた白髪の警官は、特徴的なしゃがれ声で、
「いまのところ届いていないですね。ひとまずは詳しくお話、聞かせてもらえる?」
事情を説明した。なにひとつ悪事を働いたわけではないものの、交番であれこれ詰問されるというのはやはり緊張した。警官がメモパッドになにか書きつけるたび、どの言葉が拾われたのだろうと無用な考えを巡らせてしまう。息苦しささえ感じた。
遺失届出書を出す。連絡先として自分の携帯電話の番号を記した。日時、遺失場所、財布の中身。現金は……たいした額ではなかった。それより定期。
「室姫に住んでるんだねえ。こっちには通ってきてるの? ご家族に連絡は付くかな」
架けてみます、と携帯電話を取り出したものの、母の不在は確定している。昔の友人に会うのだと言って東京に行ってしまった。残るは永峯氏しかいない。少しだけためらい、警官から不自然に見えていないよう祈りながら、呼び出し釦を押した。
彼はすぐに出た。手に自然と力が入る。このまま切ってしまいたくなった。
「千紗か。どうした」
「ええと、出先で財布を失くしてしまって、それで帰れなくて。今は交番に」
「そうか。分かった。どこの交番? すぐ行く」
通話は数分で終わった。事情を問い質されるかと身構えていたのだが、かえって気が抜けた。携帯電話を下ろした私に、警官が嬉しそうに、
「来てもらえるのかな? じゃあ良かったね。ここで待っててもらって構わないから。お母さんが来てくれるの?」
「――いえ、父です」
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