尸童(2)
それほどでは、と環さんがかぶりを振って謙遜する。いやいやをする子供のような仕種でさえ、常人とはまるで異なった優雅さを纏って見える。
「私は絶対環ちゃんだと思うよ。いちばんふさわしいと思う」
ひばりが環さんの肩を叩く。普段どおりの軽快さを装った口調だが、節々に熱がこもって聞こえた。
「環ちゃんの勇姿を千紗と一緒に観に行くからさ」
「おふたりで」
「そうそう。なんと誘われてしまったのだ。羨ましいだろ。これはもうプロポーズといっても過言ではないね」
芝居がかった調子で、ひばりが私の腕を取る。いい加減に流してくれればいいものを、環さんは律儀に、
「とても羨ましいです。いまの私には、そういうお相手はいませんから」
念入りなことに表情まで悲しげにしている。ひばりは私の手を握って前後に揺すりながら、
「久世家の令嬢って難しい立場っていうか、私たちほど自由ではないんだろうけど、もし環ちゃんに好きな相手が出来たら応援する」
「――そういう話?」
とつい割り込んだ私に、環さんは薄く笑んで、
「必ずしも冗談というわけではありません。友人付き合いにも制約があるんです」
言われて、私は黙り込んだ。少し想像すれば分かりそうな話である。唇を引き結んだ私に、環さんが慌てたように、
「と言っても、そこまで厳格ではありませんよ。ふさわしからぬ振る舞いは避けなさい、悪事から身を遠ざけなさい、といった程度の、どこの家庭にもあるような話です。ですから絶縁を命じられるようなことは――滅多なことではありません」
「だから友達としてなら、千紗ならぜんぜん大丈夫ってことだよ。ね?」
環さんが安堵したように表情を緩ませた。
「はい。朝霞さんのお友達ということでもありますし、ぜひおふたりで、遊びにいらしてください。歓迎しますから」
「じゃあお祭りの打ち上げあたりかな? 今は環ちゃんもお家も、準備で忙しいだろうしね」
「ですから、私が選ばれるかは、まだ」
くすくすと声を洩らして笑っている。環さんはひばりと私を交互に見、
「朝霞さんは甘いものでよろしいですか。千紗さんも、なにかお好きなものがあれば。ご用意させていただきます」
「そんな大袈裟にしてくれなくても――」
「お気になさらないでください。ところで千紗さん、引っ越してこられたばかりと仰っていましたが、尸童という言葉をすでにご存知でしたか?」
「このあいだ、ひばりに教わった。その年の室姫市代表、毎年ひとりずつ選ばれる歌い女。で、合ってる?」
そのとおりです、と環さんは顔を上下させる。ひばりが付言して、
「ちなみに尸童には選ばれる条件ってのがあってね。まずはもちろん、歌が上手なこと。もうひとつは、身も心も健全な乙女であること。これ、必ずしも冗談というわけではありませんですよ」
そうなの? と環さんに問うと、彼女はまた律儀に頷いて、
「はい。公開されている条件としては、その二点です」
「もちろん公開されてない裏条件があるのね。主に家柄とか育ちとか家柄とかだね。仮に歌が巧かったとしても、私みたいな平々凡々な人間に機会は無いわけ。あとはまあ――年齢? 十四から十七歳くらいが選ばれやすいよね」
年齢に関してはそうですね、と環さん。彼女の性格が少しずつ分かってきた。自分の言葉の効能を理解しているとでも言おうか、慎重な話し方をする。育ちの良さによるものか。それとも久世という家は、一言でなにかを劇的に変えうるほどの権力を有しているのか。
「だからさあ、すべてにおいて環ちゃんならばっちりだ、と私は思うわけ。みんな思ってるわけ。逆に選ばれないことってある? 自信持ちなって」
環さんは答えず、俯いた。表情は分からない。しかしその瞳が翳ったように――私には思えた。
「いまから楽しみだ。でも本番、環ちゃんの顔は見えないのかな? あれ使うんだよねえ、お面」
「尸童が誰であれ、歌うたいの娘の面は使うはずです。千紗さんは歌うたいの娘のこともご存知ですか」
お面? と問い返したくなったのを堪えて私は頷き、
「うん。『ムジカ様と歌うたいの娘』ってお話を読んだだけではあるけど」
「それで充分です。尸童というのは歌うたいの娘の――化身です。面によって彼女を演じるということは、つまり彼女と同化すること。神の国から降りてくる魂の、人間界における器。それが尸童です」
定められた文章を読み上げるような口調で、環さんが言った。その淡々とした声がかえって、私の鼓動を速くした。尸童。依代としての子供。
「尸童囃は人々の癒しであり、神への捧げものであり、この街の護りでもある。代々歌い継がれてきた、そして永久に絶えることのない、祈りです。私は――」
風が立ち、環さんの前髪をなぶったかと思うと、瞬く間に勢いを増して、私たちの衣服をもはためかせはじめた。言葉は掻き消え、激しい風音だけが残った。環さんはなにかに心を攫われたかのように空を仰ぎ見、やがて小さく唇を開いた。
それは幻聴だったろうか。あるいは呼び起こされた記憶の、もっとも蠱惑的な断片。
あの懐かしい歌声――。
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