尸童(1)

 境内に入ると途端に薄暗くなった。鳥居は俗世と神域との境界として機能するというが、こうも明確に空気が変じるものとは思わなかった。風が涌きたって耳元で唸る。眼前を跳ねていた鴉がこちらに真っ黒な瞳を向け、やがて飛び去る。外界の音はもはや聞こえない。木々のざわつきに乗って細い歌声が流れてくるばかりだ。

「ここっぽいね――誰なんじゃろね」

 足許は硬い土である。少し行くと竹林とその手前に設けられた金網にぶつかった。通路は左手に折れている。楼門があった。想像していたより内部は広いのだ。くぐり抜けると視界が開け、手水舎、その先にある小さな祠がまず目に入った。社務所と思しい場所は見当たらない。無人?

 思わず、あ、と声をあげるところだった。拝殿に近づこうと足を踏み出しかけたとき、私は見出したのである、神木の傍らに佇む人影を。

 歌声が止んだ。相手は襟元に右手を添えたままの姿勢で立ち竦んでいた。薄紅色の着物に、より深い、炎か血のように鮮やかな赤の帯を締めていた。白く涼やかな顔に、幽かな戸惑いの気配を覗かせながら、私たちを見返している。

「なんだ、びっくりしたよ。ここで歌の練習してたの?」

 ひばりが歩み寄りながら、少女に語りかける。相手もようやっと緊張を解いたような面持ちで、ああ朝霞さん、と応じた。先輩後輩の間柄か。ひばりの人懐こい性格のためだろう、わりあいに親しげな様子だ。付き合い自体も長いのかもしれない。

「少し発声をしていました。すみません、気が付かず。お聞き苦しかったでしょうか」

「聞き苦しいなんてこと無いよ。ねえ千紗」

「うん。じっくり聴き取れたわけじゃないけど、綺麗な声だったよ」

「ありがとうございます。私は――」

 少女が深々と頭を下げてから、自己紹介をしてくれた。名を久世環といった。十四歳と聞いて面食らう。大人びた風貌からもう少し上だと思っていたのだ。

「千紗の妹さんっていくつだっけ。同い年?」

 ひばりの言葉に頷きながら、私は久世さんに向かって手を伸べ、

「ひばりの同級生の、湊本千紗です。湊本は皆じゃなくて、さんずいに奏でる。今年の春に越してきたばかりで――よろしくね」

 湊本さん、と彼女は繰り返し、ほっそりとした手で握手に応じてくれた。冷えた肌の感触。

「よろしくお願い致します、湊本さん」

「出来れば下の名前で呼んでもらえると嬉しいな」

「では千紗さんで。私のことも、どうか環と」

 すぐさまそう答えると、環さんは手を離して後ずさった。向かい合った彼女は私よりも背が低く、こちらの顔を見ようとすれば自然と上目遣いになるようだった。宝玉めいたその光彩に、柘榴のような赤黒い色合いが混じっていることに、私は気付いた。

「私と千紗でね、さっきまでそこで餡蜜食べてたわけ。出てきたら、どこからか歌が聴こえるじゃん。お、これは怪現象か? と思ってね、果敢に踏み込んできたの。そしたら環ちゃんがいて。邪魔しちゃったね」

「こちらこそ驚かせてしまって。外までは聴こえていないと思っていました」

「あ、最初に気付いたのは千紗だよ。私は言われて初めて。ね?」

 頷く。環さんが歌っていた旋律を思い起こそうとしてみたが、上手くいかなかった。明瞭なメロディや展開を伴わない、どこか不思議な――。

「そうでしたか。朝霞さんはあのお店の餡蜜、これまでもよく食べに来られてましたか」

「それはもう。ヘヴィユーザーだよ」

「普段はおひとりで?」

「そうだね。誰か連れてきたのは初めてかもしんない。大好きだけど他人に教えたくないって感覚、あるじゃん? でも千紗ならいいかなって。私なりの愛なのだ」

 環さんが再び私にまなざしを向けた。やはりその瞳は赤く染まって見える。むろん充血しているわけでも、単に赤みがかった褐色というのでもない。本来は深度のある黒い目なのだ。奥に宿している光のせいだ――薪の下に潜む熾火のような光。

「大切なご友人なんですね」

「もちろん、もちろん。まだ三か月ぐらいの付き合いだけどさ、いちばん親友」

「互いにそう思える相手というのは――貴重だと思います。生涯に二度とは無い出会いをされたのかもしれませんね」

 そうまで言われるとこそばゆい。そのくらいにして、とひばりを肘で小突いた。

「はいはい。ところで環ちゃん、いつもここで歌ってんの?」

 問われた環さんがひばりに向き直る。

「こんな辺鄙な――て言ったら失礼か。でもここより環ちゃんちの庭のが広くない?」

「家よりも外のほうが気が楽ですから。家族に聴かれていると思うと、どうにも緊張してしまうようです」

「まあ久世家だからねえ。初めて遊びに行ったときさ、あれお祖父ちゃん? 朝霞さまにおかれましては常日頃より環をご指導くださり――みたいな。びびっちゃったよ。次呼ばれたら正装で来ようと思ったもん」

 言動や装いから察してはいたが、やはり特別な家柄らしい。いわゆる名家育ち――なのだろう。綺麗に切り揃えられた髪から、朱塗りで金蒔絵、赤い鼻緒の下駄を履いた足先に至るまで、万事が丁寧に整えられ、手入れが施されて、あたかも人形のようである。これが現実の肉体なのかと不意に疑わしくなるような、澄んだ肌の色。そして声音。

「あの、環さん。歌の練習って言ってたよね。なにを歌ってたの?」

 彼女は気恥ずかしげに口許を覆い、目を伏せた。ひばりが悪戯気に笑みながら、

「尸童囃だよ。なんといっても今年の尸童、超有力候補なんだから」

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