奉告の日(2)
ひばりの親指が動いたが、最初の数秒は無音状態が続いた。勿体ぶっているのか、でなければプレイヤーの不調かと思い始めたころ、太鼓か、それに近い民族楽器が唐突に打ち鳴らされた。少し遅れて、しゃん、しゃん、と鈴らしき音も響いてくる。ゆったりとしている――というより、なんとも緩慢で捉えどころのないリズムだ。全体に籠ったような、位相の定まり切らない音像と相まって、胸中に不安を掻き立てられそうな感覚がある。そういう加工なのか、実際に録音状態が悪いのか、漣のようなノイズが混じっていて、耳に心地よいとは言いがたい。
やがて声が現れる。耳元から頭蓋の内側にかけて構成されつつあった音の空間が変容していく。生まれつつある旋律に合わせて波打つ。永遠のような数秒。
おそらくは女の、鳥の囀りを思わせる高音から、図太く地を這うような低音までが無数に重なり合い、層を成しはじめる。いったい何人で歌っているのか想像もつかない。それとも多重録音? 声が官能的に絡み合い、解きほぐされ、また引き合い、繋がる。膨張と収縮。回転。上昇と下降。あらゆる動きを通底する統一感――一個の完璧な生命体のようだ。
戦慄していた。呼吸すら忘れた。脳裡に訪れる閃き。
記憶……夏闇の……魂を貫くような……予感……おそろしく愛おしい……。
あの歌声。
「これ」
唇が震えていた。視界が霞んでいる。今にも溶けだして沈んでしまいそうだ。きょとんとしてこちらを見つめているひばりの目だけが、私をかろうじて現実に繋ぎとめている。
「これは――なんなの」
音楽はいつの間にか絶えている。ひばりが私の耳からイヤフォンを抜いて、
「尸童囃っていうんだよ」
よりわらばやし、と聞こえたままを繰り返した。差し出された音楽プレイヤーの画面を覗き込む。尸童囃。見たことのない言葉だ。アーティスト名は表示されていない。
「室姫市の伝統芸能みたいなもん。ちょっと面白くない?」
沈黙を保ったまま、小さく頷く。ひばりは嬉しげに笑んで、
「尸童っていうのは、毎年ひとりずつ選ばれる歌い女のこと。要はその年の室姫市代表」
「その尸童が、さっきのを歌ってるの?」
「正確に言うと歴代の尸童全員が。尸童囃って曲だけは大昔からあるんだけど、ひとつの作品としては永遠に完成しないの。新しく選ばれた尸童がどんどん自分の声を重ねていって、ヴァージョンを更新し続ける。さっき聴かせたのは去年の。つまり最新版」
なぜそれを私が? という困惑が胸を満たした。いや、知っているはずはない。合理的な解釈を求めて思考を巡らせる。所詮は幼少期の曖昧な記憶。夢ともうつつともつかない――事実、今日の今日まで表に出てくることは無かったのだ。過去の私は祭りでなにか歌を聴いたかもしれないし、ふらふらと母のもとを離れたかもしれない。どうということはない体験を、即席でそれらしく脚色してしまったに過ぎないのではないか。
「ひばり。さっき、それをひとりで聴いてなかった? 私が寝てるあいだに」
え? と彼女は目をしばたたかせて、
「実は聴いてた。話す前にいちおう、と思って。でもなんで?」
「私も夢の中で聴いてたような気がしたから。不思議な音楽が出てくる夢を見てたの。たぶん、ちょっとだけ聴こえてたんだよ」
「音洩れしてた? ごめん、そんなに大きい音で聴いてたつもり無かったんだけど」
慌てたように詫びてきたので、私はかぶりを振って、
「きっと私が近すぎただけだよ。思いっきり寄りかかって寝ちゃって、こっちこそごめんね」
私たちは顔を見合わせ、どちらからともなく笑いはじめた。やがてひばりが首をひねって視線を電光掲示板へと転じたので、私もそれに倣った。自宅の最寄り駅まであと三駅。
「もうちょいだね。実は今日この話をしたのには理由があるんだ。七月一日。室姫では意味ある日なの」
「なんで?」
「見たら一発で分かるよ。市民にはもう当たり前っていうか、今年も始まったかあ、みたいな感じなんだけど、初めての人はちょっとびっくりすると――」
唐突に右側、すなわち進行方向とは逆向きに引っ張られる感覚に見舞われた。ひばりの体も傾いで、今度は彼女が私に凭れてくる格好となった。そう大きな衝撃はなかったものの、立っていたなら派手によろめいたに違いない。電車が急激に速度を落としていく。
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