奉告の日(3)

 どうしたんだろ、とひばりが洩らす。急停車への注意喚起、続いてその理由を説明するアナウンスが入った。この先の駅で人身事故が発生したという。お急ぎのお客様には大変ご迷惑を――安全のため車内に――現状復旧の見込みは――といったあたりで、乗客がざわめき出す気配があった。

「なんてこった」とひばり。「最悪の事態じゃなきゃいいけど」

 けっきょく、ひとつ前の駅まで戻って降ろされることになった。電車がゆるゆると逆走を始めても、車内は騒がしいままだ。連絡を取ろうと躍起になっている人もいれば、諦めたように同伴者と言葉を交わしている人もいる。ひばりはバッグから携帯電話を抜き出して開き、

「お母さん、迎えに来てくれないかな。今日遅番って言ってたかな。千紗んち誰かいる?」

「うちはたぶん――無理。出掛けてる」

「そっか。歩くのはしんどいよね。タクシー乗るのも馬鹿らしいし。というかみんな考えること一緒か。そもそも掴まんないかも」

「この感じだと無理そうだね」

「どうしよ。もし遅番だったら、お母さん来るの、早くても八時過ぎだな」

 駅に着いた。ドアが開くと同時に乗客が溢れ出して散る。どうにかタクシー乗り場に至ってみれば、ひばりの予想したとおり人でごった返していて、暇を持て余しただけの女子高生二人が乗り込んでいけるような雰囲気ではとてもない。

 諦めてその場を離れた。歩きながら、喫茶店で少し連絡を待ち、駄目なようならカラオケにでも入って時間を潰そう、とひばりに提案された。とはいっても、彼女のほうではもうふたり遊びを決め込んでいるらしく、十分か二十分で来なかったら来ないから店はどこどこにしよう、などと楽しげだ。こうした切り替えの早さは彼女の美点である。些細な理由で苛立つということをしない。じゃあああしよう、こうしよう、と自分たちが笑える方向に話を持っていきたがる。

「どっか行きたい店ある?」

「特には」

「無ければ適当に見つかったとこで。なんか甘いの飲みたいな」

 ひばりに追従しながら、いまから意見を翻すのはかえって申し訳ないだろうか、と考えた。母は不在だが、永峯氏にならおそらく連絡は付く。一本電話を入れれば来てくれる公算が高い。咄嗟に無理だと口走ったのは、彼のビジネスを邪魔立てするのに抵抗を感じたから、そしてそれ以上に、ひばりの前で「親子」として自然に振る舞える自信が無かったからだ。呼び方からして怪しい。普段どおりに永峯さん、と言うわけにもいかないし――。

 そうこうするうちにチェーンの珈琲店に着いてしまった。同じ飲み物をふたつ注文し、揃って窓際の席に座る。

 早い夕食代わりにと言って、彼女がパンケーキを追加した。私も軽い空腹を覚えていたから、一枚分けてもらって食べることにする。安っぽい味には違いなかったが、普段の食事よりもはるかに美味しく感じた。こうした食事だけでいいのではないか、とさえ思うほどに。

 二十分が過ぎた。お母さんからの連絡はない。ひばりはがぜん張り切り、

「食べたら予定どおりカラオケでいいよね? そこの会員証、私持ってるから」

「今からだと二時間?」

「千紗が暇ならフリータイムでも。うちは遅いぶんには別に問題ないから。さすがに補導されたらまずいけど」

「――ふたりだと体力続かなそう」

「疲れたらただ座っててくれればいいよ。私、独りでも四、五時間いられる人間だから」

 彼女の言う「遅い」は常識の範疇だ。羽目を外すことこそあれ、真っ当な高校生の領域から大きく逸脱することはない。健全な友人。この年頃にありがちな異性関係のいざこざに関しても、まるきり無縁と言っていい。

 それに比べて――と考えてしまう自分が厭だった。しかし思考は止まない。

 なにげなく外に視線をやって、思わず声をあげるところだった。車道を挟んだ向かい側に見えた、俯きがちの横顔に意識が吸い寄せられる。瞬きを繰り返す。一瞬、他人の空似かと思ったが、あれほど精緻な顔立ちをした少女がそうそういるものではない。立ち位置が変わる。その全身が視界に入る――間違いない。伶だ。

 反射的に椅子を横にずらして、ひばりの陰に隠れるようにした。気付かれてはいない。誰かを待ってでもいるのか、携帯電話に目を落としながら、ときおり顔をあげて周囲の様子を伺っている。

「どうしたの?」

 怪訝そうな顔をしたひばりに、

「なんでもない。なんでもないから――お願い、そのままこっち向いてて」

「それは別にいいけど。どうしてたら? 普通に珈琲飲んでていい?」

「うん。カラオケはごめん、もう少しだけ待ってくれる?」

「まだそれ、千紗のパンケーキ残ってるじゃん。待つよ」

 伶のもとに人影が近づいた。寝乱れたような茶髪の、大学生くらいの男性である。見るからに軽薄そうな調子で、なにか話しかけている。

 まさか年の離れた恋人、ということはないだろう。男の仕種はお世辞にも上品とは言い難かったし、応じる伶の態度にも、男への好意や親密さを感じさせるようなものはなかった。なくて当然だ。伶には不釣り合いだとしか思えなかった――「身内贔屓」を差し引いても。

 男が離れていった。やがて伶も去った。彼女の姿が人混みに溶け込んでからも、私はしばらくのあいだ、その背中が消えていったほうを見つめていた。

「済んだ?」

 私の表情から安堵の気配を見て取ったのか、ひばりが指先を紙ナプキンで拭いながら問いかけてきた。頷く。よしよし、と上機嫌そうに発して彼女は立ち上がり、

「理由は訊かないよ。許してつかわす。憧れのなんとか君に見惚れてた、以外だったら」

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