奉告の日(1)

 瞼越しにも感じる眩しさが、斜めから差し入った陽光のせいだと気付くのに、ずいぶんと時間がかかった。闇が白み、複雑な図形を成し、やがて滲んで、夢の断片とともに消え失せる。入れ替わりに生じた光景は、なんの変哲もない電車の中のものだった。

「起きた?」

 朝霞ひばりの声と、左半身に伝わる体温が、私を現実の十七歳へと引き戻した。帰宅途中、彼女の肩に凭れかかるようにして、短い眠りに落ちていたものらしい。座席の規則的な振動。窓の外を流れ去る建物。私は慌てて頭部を起こし、背筋を伸ばした姿勢で座りなおした。幸いにして、近くに他の乗客の姿はない。

「ごめん。声かけてくれればよかったのに」

「引っ越してきたばっかりで疲れてんのかと思って。千紗、乗って一分で寝るんだもん」

 イヤフォンを外してこちらに視線を寄越しながら、ひばりが応じた。瞳を悪戯気に瞬かせ、薄ら笑いを浮かべている。申告した以外のなんらかの理由により、あえて起こしてくれなかったものと思しい。私の寝顔か寝言、あるいはその両方が面白かったとか、おそらくはそういったところだろう。

「ばっかりってほどでも――単に夜更かししたせいかな」

「なにゆえ? まさか湊本千紗、この私に黙って彼氏を作ったか」

「違うよ」

 笑いながら流して、適当な言い訳を探した。四月に環境が激変してから、より正確には新しい「家族」での生活が始まってから、どうにも熟睡できずにいるのは事実だ。しかしようやく親しくなりつつある友人に、余計な心配をかけたくはなかった。

「なんとなく、だらだら音楽聴いて本読んでただけ。あるでしょう、そういうの」

「ああ――気が付いたら最新刊まで読み返してたりとかね。荷物はもうぜんぶ開けたんだ?」

「とっくに開けたよ。部屋も整頓済み」

「考えてみればもう三か月になるもんね。早い早い」

 初めて気付いたとでもいうような調子で、ひばりが洩らした。癖なのか、手許ではイヤフォンから伸びたコードをしきりに弄んでいる。

 自分では「子供っぽい」としきりに気に掛けているが、快活な声音や、くるくると変わる表情とよく合った、愛らしい容貌の持ち主だ。教室での席が近いこともあって、もとより頻繁に言葉を交わす間柄だったが、最寄り駅が同じと判明して以来、登下校も共にするようになった。朝は苦手、と言うわりに、毎日定刻どおりに駅にいて私を待っている。ふたりとも部活動に所属していないので、放課後は揃って帰る。

「前いたとこではアパートだったの?」

「小さいアパートだね。安くて防音がちゃんとしてるとこを選んだら、狭くて駅から遠い部屋しか無かった」

「そういうもんか。大学で独り暮らしすることになったら参考にする。どこかしらに引っかかればの話だけど」

「大丈夫だよ。私のほうが不安。数学が駄目すぎる」

「二次試験に数学が無いところしか受けない、という手がある。国語、世界史、英語だったら千紗、だいたいどこでも行けるでしょ」

「どうかなあ。それでも自信ない」

 少し前までは、こうして大学進学を気にする日が訪れるとは想像していなかった。高卒と同時に就職し、母を支えるつもりでいた。納得してはもらえないないだろうが、それがせめてもの恩返しなのだ、と。

 転入したのは県内でもそれなりに名の通った進学校だ。いっぽう新居は県北に位置する姫室市にある。電車だと一時間ほどだ。基本的には家と学校の往復を繰り返しているが、ときおりひばりに誘われて寄り道することもある。つまりはできるだけ目立たぬように暮らそうとしている――少なくとも表向きは。

「そういえば、こないだ教えてもらったやつ、さっき聴いてたけどいいね。初めて聴いたけど格好いい」

 ひばりは自分のイヤフォンの片方を取り上げ、私の耳に差し込んできた。掌に収めていた携帯音楽プレイヤーを操作している。

「今んとこ、これが一番好きかな」

 物憂げなピアノとストリングスから軽快なリズムへと転じるイントロ――デヴィッド・ボウイの〈チェンジス〉だった。『ハンキー・ドリー』の一曲目にして、ボウイの代表曲。

「どういう歌なの。君は変われる、みたいな?」

 一度目のサビの後で、ひばりから問われた。私は少し考え、

「いろんな解釈ができる歌詞なんだよ。変化を恐れるなってニュアンスだとは思うけど。時間は自分を変えるかもしれないが、自分は時間を辿れない、なんてフレーズがあったりもするし」

 ふうん、とひばりが頷く。自分で口にしておきながら歌詞に自信が無かったので、あとで確かめてみようと思った。僕は時間を辿れない、あるいは追いつけない、それとも遡れない――使われていた単語はなんだったろう。

 一組のイヤフォンを分け合ったまま、しばらく曲を聴き続けた。ひばりはそれ以上話しかけてこようとせず、私もまた黙って、ボウイの歌声に耳を傾けていた。二曲目に配された〈ユー・プリティー・シングス〉が、父親になる男の歓喜と不安を歌った曲だということを私は思い出し、そこから否応なしに、永峯氏の面立ちを連想した。彼にとっての私も同様に、気が狂わんばかりの存在なのだろうか。「湊本十和子の娘」は。そして氏の血を分けた一人娘たるあの子は――。

 不意に手の甲を指先で叩かれた。音楽が停止する。思い出したんだけど、とひばりは切り出して、

「千紗に聴いてもらおうと思ってたのがあったんだ、好きか分かんないけど。姫室市民のあいだでは有名な曲。でもたぶん知らないんじゃないかな」

「聴いてみたい。かけて」

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