序章:夏闇(2)

 ふと風が起き、頬をなぶって通りすぎた。童女の歌はまだ聴こえている。五秒か十秒、じっと耳を澄ませてみた――先ほどより近い。

 道は細り、曲がりくねりながら、上へ向かって伸びている。とはいえ確かに人を通してきた道であるらしく、地面が綺麗に踏み固められているのが分かった。歩みを再開する。少しずつだが、傾斜が緩やかになっていくように感じた。

 不意に、視界の隅をなにかがちらついた気がした。半ば反射的にかしらを巡らせる。目を凝らした。木々の隙間から灯りが覗いていることに気付いた。

 木の幹に手を当て、頭だけ突き出すような恰好で様子を伺う。歌は依然としてそちらから聴こえてくるようだったが、一直線に草叢を踏み分ける勇気までは湧いてこなかった。どう見積もっても、浴衣姿にサンダルで取るべき進路ではない。

 道なりに進めば回りこめようと思い直した。足許に気を配りつつ、灯りを見失わないよう意識する。木の影に隠れてしまうたびに視線の向きを変えて捜すのだが、毎度違う場所に現れるような感覚があった。人工的な明滅を繰り返している感じではない。悪戯気に出たり消えたりしているかに見えるのだ。

 導きの火だろうか――やはり子供の目にしか映らない。

 何度目かの曲がり角を折れると同時に鳥居が現れた。ずいぶんと背が高く、それなりに規模のある神社のものなのだろうと想像された。幽かに空に残った夕焼けよりも濃い、鮮血のような朱色だ。

 くぐり抜ける。二列に並んだ同じ色の灯籠が、来客を招き入れるように奥へと伸びている。しかし燈はともされていない。山道から見えた光はこれではないようだ。だとすれば他のなにか――。

 目的地がここだという確信は揺るがなかった。耳に届く歌声がなによりの証拠。今までよりもずっと大きく、くっきりとした輪郭を結んで、この一帯を満たしている。

 声が帯びた異様な艶めきに、私は酔わされていた。濡れた白い膚のように滑らかで、弾力に満ちている。それでいて、爛々と目を輝かせて鎌首をもたげる蛇のような毒々しさを隠しているようでもある。触れがたく、今しも壊れそうな精緻さと、御しがたい狂気。聴く者の魂を呪縛する魔法。

 抗うすべはない。

 灯籠の列に挟まれた敷石の通路を辿っていくと、視線の先にもうひとつ、新たな鳥居が見えてくる。左右から腕のように伸びた木の枝に覆われてはっきりとは分からないが、拝殿はさらに奥だろう。

 胸が高ぶった。今の私はまだ、音楽の伸ばした指先に、そっと触れられただけに過ぎない。甘く耳をくすぐられただけのこと。これから待ち受けているであろう快楽の、ほんの前兆なのだ。

 これまで自覚したことのなかった欲望が、揺り起こされていくのを感じる。

 相対したとき、音楽は私の戸惑いやためらいを、その底で噴き出しかけている期待を、的確に見抜くだろう。半ば反射的に閉じようとする私の感覚を掴まえて、少しだけ強引に抉じ開けようとするだろう。私のあげる声なき声を、魂のおののきを、なにひとつ余さずに糧とするだろう。

 もっと近くで、あの声に抱かれたかった。渇ききった咽を澄んだ水で潤すように、心身の隅々にまで浸透させたかった。自分のなにもかもを使って、歌を受け入れたかった。

 ――おまえが欲しい。

 ずっと握り続けていた掌が不意に緩んで、母から貰った小銭を取り落とした。ちゃりん、という甲高い音。

「止まれ」

 慌てて拾いあげようとしたとき、背後から誰かが囁いた。

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