永峯邸にて(4)

 危うく珈琲をひっくり返すところだった。私は咳き込んで、

「予定、あるの? いつ?」

「もしもの話。まだ今の生活も慣れないし、そもそも出来るかも分からないし――ただね、そういう話が出てないわけじゃないの。彼も満更じゃないみたい。なんにしろ籍を入れてからにはなるから、あるとしてもしばらく先」

 冗談でないのは分かっていた。黙って母を見返しながら、生まれたての赤ん坊を抱く自分を想像してみた。年の離れた姉というよりは叔母のような心境ではなかろうか。とはいっても現実味は薄い。またしても環境が変わったなら、今度こそ対応しきれずに熱でも出してしまいそうな気がする。

「私は、お母さんの気持ちを最優先してほしい。こっちはもう十七なんだし、お母さんが幸せならそれで」

 不安は、顔色に表れたろうか。すぐにではないから、と母は繰り返し、新しい暮らしに適応することが優先と説いた。疲労が体に出やすく、事あるごとに調子を崩してきた私である。いまも寝不足が祟って、思いのほかひどい顔をしているのかもしれない。

「子供が――つまり永峯さんとのってことだけど――生まれれば本当の家族になれるって思うなら、そうしたらいいんじゃない? 私は反対しないよ。そうすれば伶も、意外と丸くなるかもしれないし」

 母は薄く微笑み、そうね、とまた言って空になった食器を引き寄せはじめた。私のものと重ねて流しへと運んでいく。彼女はふと気付いたように横の棚に目をやって、

「千紗、あなたのグラスって無かった? ほら、冷たいのを入れる、硝子の」

「昨日割っちゃった。ごめん、永峯さんには私から――」

「ああ、そうなの。怪我しなかった? 別に怒りはしないでしょう。あとで私から言っとく。片付けはすぐ済むから、適当にのんびりしてて」

 頷いて、部屋に引き上げた。ソファに身を預ける。途端に、夜の苦しみが幻だったかのように睡魔に襲われはじめた。いつもこうなのだ。昼間の自室や、食事のあとや、あるいは電車の中で不意に訪れるような、断続的な微睡みばかりが心地よく、優しい。授業中こそ神経を張り詰めさせているものの、夏休みに入ればすぐさま生活が破綻するだろうという予感がある。

 お母さん、と呟いた。

 永峯氏と出会ってから、母は格段に笑顔が増えた。ひっそりと仕舞い込んでいた物憂げな美貌が、表通りに向けて鮮やかに花開いたかのようだった。

 傍らでぼんやりと見守っているだけでは、決してそうはならない。私には持ちえないものを永峯氏は持ち、与え、母の本来の姿を取り戻させたのだ。「理想の妻」像にきわめて近い、明るく、穏やかで、心優しい女性。父が存命ならこうだったかもしれないと感じさせる瞬間が、このところ何度となくある。それは娘として歓迎すべきなのだ――たとえ私の知る母から、少しずつ離れていくことになったとしても。

 思い出が連鎖する。より遠く、曖昧模糊とした、心の奥底に潜む記憶。狭苦しいアパート。母が声を抑え込んで嗚咽している理由を、幼い私は知りえなかった。ただなにか、とても大切なものを失くしたに違いないと、それで心にぽっかり穴が開いてしまったのだと、そんなふうに漠然と理解し、ひたすらに眠った格好を装っていた。明日の朝、何事も無かったかのように起き出してくるのであろう彼女に見せるべき自然な振る舞いについて、布団の中で延々と考えを巡らせた――。

 とろとろと寝入りそうになったとき、机の上に置いたままにしていた携帯電話のヴァイブレーションで、意識を呼び戻された。メールが入っている。送信者、朝霞ひばり。

〈妖術が発動した!〉

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