永峯邸にて(3)

 片付けを終えて部屋に帰っても、うまく寝つけなかった。何度も体験しているにしろ、やはり快いものではない。苛立つ。夜に拒絶されているような気になる。

 薄く肌触りのよい掛け布団と行き届いた空調、落ち着いた香り。なにより疲弊した体。このうえなく適切な環境が用意されていると思うのに、いつまでも意識は去らない。思考は冴え冴えとし、脈は速まり、体温は上昇し、皮膚感覚までもが鋭敏になるようである。

 完全な不眠とは言いかねる。熟睡には程遠い。ベッドに入ってすぐの段階で、これは駄目そうだという感覚に見舞われる夜が、いままでにもしばしばあった。たいがいそのとおりになる。ぼんやりと靄がかかったような頭と、鉛球を埋め込まれたような胸とを抱えて、意味もなく寝返りを繰り返す。

 原因は知れている。しかし除きえない。頭から追いやろうとすればするほど、かえって鮮明に現れては邪魔をする。咽や鼻の奥がじんと熱くなってくる。誰かを思って泣くなんて恋しているみたいだと自嘲するものの、決して涙が止むことはない。

 やがてカーテンの外が白々としてきた。はたと気が付くと朝食の時間だった。

 日曜日である。まだ寝床にいてもよかったのだが、だらしのない娘だと見做されるのが癪で、無理やり起き出すことに決めた。申し訳程度にストレッチをし、着替えて、一階へと下りた。

 キッチンには母の姿があった。ちらりとこちらを振り向いた彼女と挨拶を交わす。テーブルには二人ぶんの食事が準備されつつあった。うっすらと珈琲の香りが立ち込めている。インスタントではなく、ミルで豆を挽いているのだ。

 向かい合って朝食をとった。白くふんわりとしたパン、瑞々しいサラダ、ベーコンエッグ……トーストや菓子パンを漫然と齧るだけで済ませていた日々が嘘のようだった。

「永峯さんたちは」

「仁さんはお出掛け。用があるんだって。伶は――」

 逡巡するように言葉を曖昧にしたあと、母は私を見やって、

「昨日も遅かったみたい。でも、もう出て行っちゃった」

「昨日の夜、伶とちょっと話したよ。起きたらたまたま顔を合わせて」

「どんなこと?」

「たいしたことは話せなかった。いつもと同じような感じ」

 そう、と母は吐息交じりに応じた。義妹の飲酒癖について私から伝えるべきだと分かっていたが、すぐには切り出せなかった。むろん擁護するつもりはない。ただ告げ口するようで気乗りしなかったのである。

「伶もまだ中学生なんだし、夜間外出にも限度があるでしょう。私から喧しくするのもかえって良くないのかな、と思って直接叱らずにはいるんだけどね。そろそろちゃんと話さなきゃいけないよね」

 頷く。夜間外出、という言葉を使ってはいたもの、伶のそれが実質夜遊びであること、おそらくは飲酒や好ましからぬ交友関係についても、あるていど把握しているのだと思った。彼女の性格は知っている。どのていど「永峯伶の母親」として振る舞ってよいものか掴みかねているのだ。自身で定めた躾の基準を、血縁上は他人の伶に、それも実の父親である永峯氏の承諾なく適用することに躊躇いを感じている――おそらくはそんなところだろう。

 彼らが子育てに関してどういった取り決めを交わしているかは分からない。しかし現状では、母は私、永峯氏は伶、と分担されたままのように、私からは見える。

「私もこのあいだ、なんで伶を好きにさせてるんですかって永峯さんに言っちゃった。難しい時期だから、としか答えてもらえなかったけど」

「私にも同じこと言った。千紗は本当に手がかからない子だったんだなあって思ったわ。悩んでもむやみに騒いだり悪いことしたりしないで、ちゃんと相談してくれたでしょう」

「それはまあ、あんまり心労が嵩んだら倒れちゃいそうだったから。母子家庭だし、迷惑かけるのは仕方ないにしても、せめて馬鹿はやりすぎないようにしようって」

「そう考えて実行してくれるだけで母親としてはありがたいの。私が今のあなたぐらいの頃はなにも考えてなかった。やれ恋愛、やれファッション。想像つくでしょう?」

「でも伶ほど荒れてもいなかった。違う?」

 私の指摘に、母はテーブルに視線を落として、

「そうね」

 母の昔の写真を見たことがある。当時の流行だったのであろう、わずかにウェーブのかかったロングヘアに淡いワンピース姿で、白い歯を覗かせて微笑んでいた。恋愛やファッションに興じることはむろんあったのだろうが、どちらかと言えば繊細で落ち着いた印象の、私の目にも美しい少女だった。おそらくは十五、六歳――今から三十年前の湊本十和子の肖像。

「確かに伶みたいな感じじゃなかった。ただまっすぐ順当でもなかった。いろいろありました、って纏めちゃえばそれまでだけどね」

 笑っている。四十五歳の母は、年齢に無理やり抗っているような素振りではないのに、私が物心ついてからというもの、ずっと同じ顔つきでいる。彼女の周囲だけ時間が静止してしまったかに見える。

 彼女は十八歳、現在の私とそう変わらぬ年齢で家を出た。それからすぐに父、すなわち私の実父と出会い、本人いわく迷うことなく、結婚した。なかなか子宝に恵まれなかったらしく、私を産んだのは二十八歳のとき。母子ともども命が危ぶまれるような難産で、私が産声をあげたときには奇蹟に感謝したという。

 ところが三人での暮らしが始まろうという矢先、父が突然死した。原因不明の心臓発作だったと聞いている。ろくに首も座っていない私を抱えてたいそう困窮したろうに、生家に助けを求めることはついに無かったようである。よって私は、いまだに祖父母の顔を知らない。「家族」と呼べるのは母だけ、という状況が生まれてから十七年続いた――。

「ねえ千紗、弟か妹が出来たらどう思う?」

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