永峯邸にて(2)
伶だった。私の存在を認めても顔色ひとつ変えることなく、台所に入ってくる。平然と傍らを行き過ぎて棚に手を伸ばす。幽かに纏っている香りがアルコールのものだという想像は、私にでもすぐについた。
「伶。あんまり家族に心配かけるようなことしないで」
つい口調を険しくした。彼女は視線さえも寄越さず、
「家族? お父さんはなにも言わないけど。永峯家は放任主義だから」
「じゃあお母さんと私に。少し遊んじゃうくらいなら口うるさく言わないけど――さすがに見逃せない」
氷とミネラルウォーターで満たされたグラスを持ったまま、伶は初めてこちらを見やり、
「それ苦手。甘ったるくて」
ミルクティーのことだと即座には気付けなかった。私は声を低くして、
「別にいいでしょう。いまはそういう話じゃない。補導でもされたらどうするつもり?」
伶は黙ったまま、小さく唇を湾曲させた。下手を打たない絶対の自信があるのかもしれなかった。じじつこれだけ奔放に振る舞っていながら、決定的な失態を見せたことはないのだ。二日も三日も家を空けていたかと思えば、気まぐれに舞い戻ってくる。永峯氏もまた何事も無かったかのように受け入れる。彼らのそうしたさまが私には理解できない。
「仕方ないんだよ。欲しいものを手に入れるためには」
不意に伶が発した。どこか物淋しげな調子だった。え? と私は唇を開いた。
例によって無視されるか、あるいは無下に撥ねつけられるものと予期していたから驚いたのだ。呟きは彼女らしからぬ率直な内面の吐露のようにも聞こえ、この子はやはりなんらかの支えを欲しているのではないか、自分が近く寄り添うべきではないかという思いが唐突に漲ってきた。孤独で頑なな魂の声に辛抱強く耳を傾けてやるのが「姉」の役割で、出来るのは私しかいない――そんな気にさせられたのだ。
「欲しいものって? 永峯さんには買ってもらえないもの? なにが必要なの」
「薬。出来るだけ強いやつ。あとは気晴らしにやれる相手がいれば嬉しいかな」
嘲るような笑みを見せている。身を乗り出しかけたまま、私は身を固くした。
冷や水を浴びせられた気分だった。やはりこうなのかと思う。
胸中に苛立ちとも諦めともつかない感情が押し寄せてきた。なぜ普通に――理想的に、とまでは言わないまでもごく普通に――笑い合える姉妹になれない?
唇を引き結んだまま伶を見返す。整いすぎた顔の造形。黒の長髪。対照的な、月のように白い膚。冷たい声。私が永峯伶という少女について知っていることは驚くほど少ない。そのいっぽうで、自分の薄っぺらな内面のいっさいは向こうに筒抜けでないかと思えてならない。
やがて私は視線を逸らし、ミルクティーを呷るように飲みはじめた。伶は反対側の席に着いたままだ。酔い覚ましをしてから眠るつもりだろうか。
「ともかく、あんまり危ないことはしないで。このあいだ、倉掛駅の近くで変な人に絡まれてたでしょう? ああいうの、怖くないの? 厭じゃない?」
隠していたカードを切るようなつもりでそう言った。しかし伶は動じず、
「ああ――あいつね。あの使えない奴。見てたんだ?」
「たまたま。よく分かんないけど、せめて自分のことをもう少し大事にしてよ。お母さんも私も不安なんだよ」
あの日、と伶。なにを言い出す気だろうと身構えた。彼女はこともなげに、氷だけになったグラスを揺すっている。からからと乾いた音が響く。
「電車停まったよね。それで降ろされて、暇潰しにふらふらしてて、私を見つけた。そんなところでしょ?」
自信に満ちた口調だった。私が沈黙を保っていると、彼女は続けて、
「停まったの、なんでか知ってる?」
「事故だって聞いたけど」
伶は薄笑いして、
「表向きは。実質、飛び込み自殺。死んだのは私と同じくらいの――まあ子供かな。男か女かは分かんなかった。顔見る前に突っ込まれちゃったから」
「……目の前で?」
答えない。表情にこれといった変化はない。仮に人の死に立ち会ったとして、こうも平静さを保てるものだろうか。それとも私をからかって反応を面白がっているのか。
「そっちはなにしてたの」
と逆に問われた。先の発言はやはり冗談か。
「友達とお茶飲んでカラオケ。それから龍燈神社に連れてってもらってた。ちょうどライトアップが始まる日だったでしょう、お祭りの」
「そう。誰かに会わなかった?」
「誰にも会わないよ。一緒にいた友達と、そのお母さんだけ。なんで?」
「別に。ならいい」
私は曖昧に頷き、
「神社、凄く綺麗だった。お祭りもみんなで行けたら楽しそうだなって――」
私の言葉を遮るように伶が立ち上がった。椅子が音を立てる。思わず口を噤んだ。寒々とした眼光に射すくめられ、二の句が継げなかった。
「あれには触らないほうがいい」
そう吐き捨てるように発すると、伶は私に背中を向けた。え? と呼び止めようとした私をまるきり無視して、台所を出ていく。振り返る気配さえもなかった。
「……なんなの」
独り言ち、浮かせかけた腰を再び椅子に落ち着けた。今さらのように伶がグラスを置き去りにしていったことに気付く。自分の使ったものと一緒に片付けようと手を伸ばした。
不意に脳裡をなにかがよぎった気がした。あ、と思ったときにはすでにその気配は飛び去り、代わりに、掴んだはずの物体が掌を擦り抜けていく感触だけが残った。
落下はやたら長く感じられた。甲高い音とともにグラスが砕け散った。
「は」
水浸しのフローリングを前にして、なぜか急激に笑い出したくなった。発作じみた感じで、どうにも収まりそうにない。
声を押し殺して笑った。笑い出すと止まらなくなった。そのあいだじゅう、氷と硝子片が電燈を浴びて織り成す乱反射を、ただ見下ろしつづけていた。
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