永峯邸にて(1)

 時計に目をやると、すでに日付を跨いでいた。

 自分の想定する物語からの微妙な逸脱が気にかかっていた。特に歌うたいの娘。異郷、作中の言葉でいうなら「神様の国」から一時的に派遣された存在と思われるのに、どこにもそうした描写がなされていないのが不思議だったのである。こうした異能を発揮する子供は、出生の時点で通常の人間ではないと明示されているものではなかろうか。典型的なのは拾い子で、たいてい発見あるいは出現場所に応じた名前が付く。何々太郎、の類がそうだ。むろん詳しく民話や昔話を研究してきたわけではないから、幼少期の読書経験からの印象に過ぎないのだが。

 この民話集は、ひばりのアドバイスに従って図書館から借り出してきた。「ムジカ様と歌うたいの娘」は彼女の言ったとおり、室姫市近辺ではずいぶんと有名な物語らしく、同様のタイトルで複数の本に収められていた。学校でも習うという。司書の助けを借りて、もっとも広く読まれているであろうヴァージョンのものを選んだ。

 ふと、物音が聞こえた気がした。顔をあげてしまってから、錯覚と気付いて古ぼけた頁に視線を戻す。沈黙に満たされた部屋にいると、かえってそうした感覚が生じやすくなるのかもしれない。音のほとんど響かない家だ。移ってきた初日、防音室並みの性能があるから、という説明を永峯氏に受けた。

 必ずしも誇張でないのはすぐに察した。オーディオやホームシアターに凝っている。母と隣り合って大画面で映画を観ているのを、一度ならず目撃した。同様の環境が各部屋に整備されている。むろん、私に割り当てられた部屋にも。

 壁の大型テレビも、床の絨毯も、硝子扉付きのキャビネットも、いままさに腰かけているソファでさえ、現実のものという気がしなかった。ふわふわとした幻に包まれているようで、いつまでも地に足が付いた感覚を得られずにいる。ひばりの推測はある意味で当たっているのだ――私はここに来たばかりだ。

 再び顔をあげ、引っ越しの際に持ち込んできた数少ない私物である、愛用のエレキギターに視線をやった。国産の、ストラトキャスターのコピーモデルだ。お世辞にも上等な楽器ではない。この部屋に不似合いなのは分かりきっていたが、ゆいいつ自分と同じ地平と感じられる存在を、そうそう手放せるわけもない。

 本を閉じ、ギターを抱えた。ミニアンプの電源を入れる。好きに音を出して構わないと言われているが、けっきょくこれまでどおりヘッドフォンを使うことにして、繋いだ。

 爪弾いた。これを手に入れたとき、私は中学生だった。本当は、いちばん安価な入門向けモデルを買うつもりでいた。楽器店に足を踏み入れてからもずっと、視界の隅にちらつく輝きは意識しないようにしていた。ところが同行してくれた友人に、即座に言い当てられてしまったのだ。あれが欲しいんでしょ、と。

 心の声を無視できなかった。貯金はほとんど丸ごと消えた。謝罪するつもりで母に見せると、綺麗な楽器を買えてよかったね、と言われた。翌月の彼女の誕生日には、去年より小さな花を贈った――。

 またしても物音。あるいは胸騒ぎが音に変換されていると捉えるべきか。少し迷ってからヘッドフォンを外し、ギターをスタンドに立てかけて、部屋を出た。

 廊下を辿っていくと、私の部屋のものと同じデザインのドアに行き当たる。中の様子はとうぜん分からないが、人の気配はない。前を通りすぎて、階段を下りた。

 部屋などいくらでも有り余っているはずのこの家で、あえて隣り合う場所を宛がわれたのは、互いに行き来して親交を深めてほしいという意図からだろう。私も初めのうちはそのつもりでいた。関係が特殊なぶん、かえって堅固な連帯感が芽生えるのではないかという期待もあった。境遇を同じくする者どうし結託して、場合によってはふたりで「両親」と対峙できるような。

 一階の台所に至った。むろん誰も居はしない。なんのために下りてきたのだったか。ふと咽の渇きを覚え、棚からグラスを出した。自室にも個人の冷蔵庫と飲み物があるのだが、なぜかそれには思い至らなかった。蛇口を捻ろうとして手を止め、共用の大型冷蔵庫を開けた。

 吐息した。ペットボトルのミルクティーが大量に買い置かれている。見たところ開栓されているものはひとつもない。私のためだけに用意されていたのだろう――確かに永峯氏の前で一度、この銘柄が好きだと口走った記憶があった。

 よく覚えていたものだ。さすがに申し訳なく、手を付けることにした。顔を合わせたら礼を言っておくべきかもしれない。そっと椅子を引いて腰かけた。

 三度目の物音。今度こそ幻聴ではないという確信があった。ドアが開く。

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