彷徨者たち(2)
唐突に頬を張られたような気がした。動揺を隠そうと、そうかな、と曖昧に頷いてみせる。昨夜伶の見せた、苛烈ともいえる反応を私は思い返していた。好かれている、姉として慕われているとはむろん思わないものの、あんなにも手痛く拒絶されるとは予想していなかった。伶はなんと言った? あのときの冷たい眼光、そして声。
「はい笑って」
不意に携帯電話を向けられてたじろいだ。はっとし、掌を振りながら横へと逃げる。ひばりは笑顔のまま腕を下ろし、
「ちゃんと浴衣とか着てからのほうがいいか。髪もいい感じにセットして」
「そもそもモデルが悪い。もっとふさわしい被写体がいくらでもいるでしょう――ほら」
顔を背けるようにして雑踏を眺め渡す。いい加減に視線を走らせていると、まさしく淡い浴衣姿が飛び込んできて私は声をあげかけた。ほっそりとした背中。肩までまっすぐに下りた髪。ひとりきりで歩いている――子供かもしれない。
「ああいう子にお願いして撮らせてもらいなよ」
むろん私の撮影を諦めてもらうための方便であって、実際にひばりがそうするとは考えなかった。ところが彼女は目を細めて私の視線の先を凝視し、
「どこ。どの子?」
「本気なの? いまちょうど、道路挟んで向こうの鯛焼き屋の前」
「鯛焼き? ああ――けっこう繁盛してんね。海外からのお客様っぽい五人組が並んでる店でしょ」
「そのすぐ近く。サングラスで髭の人の横に立ってる」
「え? 分かんない。グラサンの横でしょ? 誰もいないよ」
「いるよ。白っぽい浴衣で小柄な子。いま動き出した」
「いないって。ほんとに分かんない。まだ見えてる? 人混みに紛れてない?」
訝りながらひばりの横顔を覗いた。一拍遅れて振り向いた彼女と目が合う。困惑した表情だ。嘘を吐いているような感じには見えなかった。視線を戻す。
いない――。
「……嘘」
「ほれ、やっぱり見間違いだ」
そんなはず、と抗弁しようとしたが、じじつ浴衣姿の子供の気配は丸ごと消え失せていたのである。視線を逸らしているあいだに雑踏に溶け込んでしまったか、あるいはどこかの店に入ったか、そういった理由には違いないのだが、私の感覚は一瞬、それを許容しなかった。
目の前で、幻のように掻き消えた。
ぱっと信号が切り替わり、人々がいっせいに横断歩道へと歩み出す。鯛焼き屋の看板も、その店先に屯していた客たちも、瞬く間にその波に包み隠されて、見えなくなる。
「さっきまでいたんだよ。浴衣の、白い」
ん、とひばりは首を傾け、
「ぜんぜん違うとこ見てたってことは――無いか。美少女だった?」
「そこまでは。たぶん女の子だったとは思うけど、後姿だけだから」
「美少年? それも悪くないけどね。ほら、綺麗な人って後姿も綺麗じゃん。そのへんを加味してどうだった?」
思い返す。とくべつ急いでいる様子ではないのに、群衆のあいだをするすると巧みに擦り抜けて……そうした歩き方から子供と判じたのだった。白く細い背中が、視界の中でゆらゆら、ちらちらと――。
「まあ、いいや。そのへんで甘いもんでも食べようよ。鯛焼き? 餡蜜のがいいか」
いつの間にやら黙り込み、もはや見つかるはずもない浴衣姿を探しつづけていた私に、ひばりがあっさりと呼びかけた。ほら、といつもの調子で手招きながら、
「ケーキ。大判焼き。パフェ。なにがいい? 私は太りそうな食べ物には詳しいんだ」
餡蜜かな、と反射的に答えた。了解、とひばりが明るく発する。歩き出す。お気に入りの店だとひばりは太鼓判を押した。彼女に追随しているあいだも、白い残像がしばらくは失せることなく網膜に留まっていたが、いつの間にか意識の外へと去った。
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