父と娘(4)
夕食を落ち着いて話せる場所でとりたいと申し出ると永峯氏は喜んで、物静かな料亭に連れていってくれた。常連なのだろう、数寄屋門をくぐって扉を開けるなり、丁重な出迎えを受けた。五十代くらいの、和服のよく似合った女性店員が、私たちに頭を下げる。
「お待ちしておりました、永峯様。お嬢様」
「いつもお世話になります。どう、母親似で美人でしょう」
本当にお綺麗なお嬢様で、とお世辞を言いながら、私たちを奥へと導く。坪庭の見える個室へと通された。氏と向かい合って席に着いた。
「十和子とよく来るんだ。君にもどうかと。すぐ食事にしようか?」
「少し咽を湿したいです。こういうお店は初めてなので、緊張してしまって」
先ほどの店員が来た。永峯氏とのやり取りからこの店の女将であることが分かった。
「車を預かってもらって飲んでもいいんだが――やめよう。今日は娘とのドライヴだから」
ソフトドリンクで乾杯をした。前菜として笹巻寿司や羹が出てきた。夏らしく涼しげな膳の彩りを、私は一目で気に入った。
「どう話していいか分からないんですけど、今まですみませんでした」
「なにに対して? 謝られるようなことはなにも無いよ。今日のことだったら――」
「今日のこともそうなんですが、これまでずっと、失礼な態度を取ってしまっていて」
「失礼もなにも。君はいつだって礼儀正しい。というより他人行儀だ」
「そのことです。私のほうから歩み寄る努力を怠っていたと思います」
氏は笑顔を浮かべて、
「いや、そんなのは俺の力不足だ。君の責任じゃない。やむを得ずの事態だったからにしても、今日は俺を頼ってくれてありがとう。ここまで付き合ってくれてありがとう。またこういう機会があるといいんだが」
私は笑みを返した。
「今度はこういう騒ぎじゃなくて、普通にお祝い事で来られたら楽しいと思います。それとプレゼント、ありがとうございました。大切にします」
氏から貰ったのはジップ式の長財布である。目立ったロゴなどは無く、ブランド名が角に小さく入っているのみの、シンプルなデザインのものだった。手に取ってみて驚いたのは、スキンカーフのシルクのような滑らかさだ。思わず陶然となった。母と同じ型――ただし色だけは私の選んだ、淡いキャメル。
「じゃあ誕生日にでもまた。いちばん近いのは――俺だった。来月だ」
氏が照れたように鼻の横を掻く。
「おめでとうございます。でも私たちからでは正直、たいしたものは――」
「ただ一言でも祝ってもらえれば、他にはなにもいらない。そういう家族に囲まれるのが夢だった。自分には決して叶わない夢想だろうと思ってた」
氏は言葉を詰まらせ、少年のようにはにかんだ。洗練された口調や態度を保ってきた彼が不意に覗かせた、不器用で率直な一面。絆された、という表現は適当ではないかもしれないが、自分の中で頑なに縛り上げていたなにかが、少しずつ緩んでいくのを感じていた。
「あの、永峯さん」
「うん?」
「聞いていただきたい話があるんです。ぜんぜん面白い話じゃ――というより、不快に感じられるかもしれない話です。ずっと引きずっている思い出です」
「いいよ。なんでも聞く。誰にも洩らさないし、どんな話だったとしても否定しない。約束する」
テーブルに視線を落として息を吐いた。それから永峯氏の顔を見返した。表情に嘘はないと感じた。そう信じたかった。
「私には、赤ん坊の頃の記憶があります」
なにか言い返したかったに違いないが、氏は約束を守った。黙ったまま頷いたのだ。
「赤ん坊の、と言ったのは、時期的にそうとしか考えられないからです。不思議なのですが、記憶の中の私は赤ん坊ではなくて、もう少し成長した姿をしているんです。そう、六歳か七歳くらい。その私が、母が泣いている姿を見てしまうんです。母は決して、私の前で泣くことは無い人でした。なぜ泣いているのか当時は分からなかったのですが、いま考えれば答えはひとつしかありません。夫を――つまり私にとっての実の父親を、亡くしたから」
「お父さんが亡くなったのは、君が生まれてすぐのことだったね」
と慎重に永峯氏が確認する。そうです、と私は答え、
「私は、父の顔を見たことも、声を聞いたこともありません。だから悲しみようもないはずなんです。ただ母が、ずっと気丈に振る舞っていた母が、あんなに苦しそうに――。きっとあのとき、自分の心に刻まれてしまったんだと思います。大切なものを失う怖ろしさが」
氏はしばらく沈黙を維持していたが、やがて、
「その経験でお母さんへの情が深まった、という面はあるのかもしれない。しかし話を聞いた限り君自身は、怯えだとか、不安、あるいは過度な執着といった、どちらかというとネガティヴな面を強く意識しているらしい。幼少期の子供にとって、母親のそういう姿を見てしまうのは強いストレスだったんだろうとは想像できる。記憶の中の君が小学生くらいの姿をしてるのは――そのくらいの年齢なら共感の感情が芽生えていたと、現在の君が認識しているからじゃないだろうか」
「たぶん、仰るとおりなんだと思います。あれを思い出すのは、だいたい夢で見たときなんです。普段は奥のほうに仕舞ってあるのに、ふっと甦ってくるような感じで」
「なるほど。環境が変わったばかりだと余計かもしれない」
「それもあると思います。ただ、それより――すみません、正直に話してもいいですか」
「もちろん。安心して打ち明けてくれていい」
「では。無意識下に、母が永峯さんに盗られてしまうと思い込んでいる自分がいるんだと思うんです。母が幸せになるのは喜ばしいことのはずなのに、自分のもとから離れてしまうのが厭だと感じてもいる。馬鹿みたいだって分かってはいるんですが」
「それは自然な反応じゃないか? 俺は君から十和子を奪いも引き離しもしないし、君自身もそう理解してくれてるとは思うが、母親が再婚するとなったら生理的な抵抗はどうしたって生じるだろう。初めから承知の上だよ。君の感覚は当然だし、きわめて真っ当だ」
永峯氏のこの反応は、私を安堵させた。ひとりで恥じ入るばかりだった幼稚な思い込みが、真っ当――私を慮っての発言に過ぎなかったとしても、少し救われたような気分になった。ありがとうございます、と礼を言った。
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