父と娘(5)

 煮物や揚物に続いてメインの料理が運ばれてきた。お飲み物のお代わりはいかがですか、と訊ねられた氏が、

「俺は同じもので。ちなみに今日はなにか入ってますか」

 日本酒の銘柄らしい名前を女将さんが答える。ああ、と嬉しげな反応を氏は見せて、

「十和子に知らせないとな。千紗は? 飲んでみたければ、いいよ」

「いえ、大丈夫です。私もさっきと同じものをお願いします」

 かしこまりました、と女将さんが下がった。ふたりきりになってから、

「苦手? 十和子の好物なら一口くらい試してみる、と言われるかと思った」

「苦手というか、飲んだことがありません。将来的にも、たぶん」

「そうか。なら無理にとは言わない」

 けっきょく烏龍茶だけで私たちは食事を済ませ、デザートの水菓子まで食べ切ったところで退店した。やはり特別待遇と思しい見送りをされながら、駐車場へと向かう。今度はなにも言われないうちに助手席へと乗り込んだ。氏は車のエンジンをかけながら私を振り返り、

「どこか他に寄りたいところはある?」

「いいえ。とても楽しかったです。帰りましょう」

 氏はアクセルを踏んだ。

 薄曇りの夜空にはすでに月が浮かんでいる。料亭での時間はゆったりとし、現実から切り離されていたかのようだった。満腹と、シートの感触と、満ち足りた気分とが手伝って、私はぼんやりとした眠気を覚えはじめた。氏の隣で寝入るなどというのは、少し前までは考えられなかったことだ。彼にずいぶんと気を許しつつある――そういうことなのだろう。

「君の話を聞いて考えていたんだが」

 と不意に呼びかけられた。私がはっと頭部を起こすと、

「悪い。眠かった? だったら寝てていいよ」

「いえその――どういったことを?」

「いつ頃から自我が芽生えるかという話だ。少し気になってね」

「ええ」

「君がごく小さかった頃の記憶があると言ったとき、俺はそれほど驚かなかった。近いケースを知っていたからだ。自分自身の話ではないんだが、見ていてこれはそうに違いないと思ったんだ」

 私はなるべく落ち着いた声を作って、

「伶ですか」

「そうだ。あの子は――親の贔屓目と言われるかもしれないが、信じられないほどに成長が速かった。特に知能の面でね」

「勉強が出来たんですか」

 わざと凡庸な問いを返してみる。永峯氏はすぐさま、

「勉強も出来た、かな。それ以上のものが伶にはあった。こちらのなにもかもを見透かされているんじゃないかと感じたのも、一度や二度じゃない。君がどう感じているかは分からないが」

「――そうですね」

「俺なんかよりはるかに明晰で、鋭くて、驚かされることばかりだった。そのうえ見聞きしたことは決して忘れない。お父さん、ああだったでしょう、こうだったでしょう、と伶が言えば、必ずそのとおりなんだ。おそらくだが、生まれた瞬間から特別な能力を持っていたんだと思う」

 頷いた。おそらく心のどこかで、私は回答を予感していた。それは永峯伶という人間と出会って以来、何度となく胸を掠めてきた感覚でもあった。なんらかの――特別な能力とともに生まれ落ちた人間。

「永峯さんがそうと確信するに至った具体的なお話があれば、聞きたいです」

「いくらでも挙げられるんだが、そうだな、君は尸童囃を知ってるか?」

「はい。友達に教えてもらいました。去年のものだというヴァージョンを聴きました」

「あれは一年に一度ずつ新しい歌声が重ねられ、更新される。その年の声が吹き込まれるのは、祭りのフィナーレにおいてだ。一度だけ、その現場に伶を連れていったことがある。あの子は生まれたての赤ん坊だった。子守歌代わりにして眠っているように見えた。ところがだ」

 信号が点滅しはじめ、永峯氏は車のスピードを緩めた。停車すると彼は私を見やり、

「三歳のとき、伶はそれを正確に再現した。初めはなにを歌っているのか、まるで分からなかった。聴いたことがあるなら君も知ってるだろう、尸童囃は、歌い手の全員に違うフレーズが割り当てられる。ぜんぶが重なり合って、不思議とひとつの曲に聴こえるんだ。単独で抜き出すとまるきり意味が分からなくなる。だからお父さんと一緒に聴いた歌だと言われてから正解に辿り着くまで、ずいぶん時間がかかったよ」

「どうやって確かめたんですか」

「尸童囃、正確にはその一部じゃないかと見当をつけるところまでは、かろうじて自分で。ここでもうお手上げだったから、祭りの実行委員会に連絡を取って、相応の人間に実際に伶の歌を聴いてもらった。間違いなくその年の版で歌われたものだ、と彼らは断言した」

「赤ん坊の頃に一度、聴いたきりだったんですよね」

「ああ。その年の尸童が担当する部分が単独で歌われるのは一回だけだ、とも彼らは断言した」

「つまり記憶能力に間違いない、と」

 車が発進する。氏は記憶を反芻するようにハンドルを指先で叩きながら、

「そう。そして話はそれだけじゃない。実行委員会の人間が、娘さんの追試をさせてください、と俺に依頼してきた。なにをするつもりだと訊きかえしたら、尸童囃を三回聴いてもらうだけですと言う。ならばと承知した。尸童囃が三回流れたあと、彼らは伶に質問した。君が真似して歌ったのはこれか、と。伶はこう答えた。一度目には私の知っている歌は無かった、二度目には私の歌った歌が加わっていた、三度目にはそれは無かったが、一度目のものとも違っていた」

「――予告なしにヴァージョン違いを流されて、伶はそれを聴き分けて?」

「そういうことになる。テストが終わってから聞いたんだが、新しい順から二番目、一番目、三番目、だったそうだ」

「その情報は重要ですか」

「重要だな。驚いたのはさらにこのあとで、じゃあ一度目と三度目はなにが違ったのかと訊かれた伶は、即興でまた歌いはじめたんだ。ひとつのフレーズが終わると、声の調子を別人みたいに変えて別のフレーズに繋げる。なにをやろうとしているのか気付いた瞬間、さすがに唖然とした。伶は、三番目の時点では存在しなかったものをすべて自分で歌い足して、一番目を疑似的に再現したんだ」

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