第2話 Pottering
幸太はふわふわした足取りで家に帰ってきた。
「ただいま。」
「幸ちゃん、お帰り〜。」
ぱたぱたとスリッパの音を立てて母が迎えに出て来た。母の額には大きな湿布が貼ってある。ああ、やっぱり。幸太は思った。まだ30代の人目を引く美人だけに湿布を貼っている姿にギャップがある。幸太は母の額に手を伸ばした。
「やっぱりお母さんだったんだね。大丈夫?」
「ちょっと気分が悪くなっちゃってね。保健室で休ませてもらったわ。」
母は屈託なく笑う。
幸太の病弱な体質は母からの遺伝だった。母は専業主婦であるが家事を全てこなすことはできず、近所に住んでいる祖母が手伝いに来てくれている。そして幸太の色白な優しい顔立ちも母譲りなのであった。幸太も小学生時代から学校を休みがちであった。よく身体の弱い子が勉強はできるという小説や漫画があるが、体調が悪いと集中力を欠く幸太の成績は中の下、もしくは下の上と言ったところなのだった。
そして日曜日になり、昼過ぎに幸太は部活動の見学に行くと言って家を出た。うきうきしながら高校に着くと、美戸はすでに来ていた。美戸は動き易そうなジャージの上着にお尻が隠れる位の短いスカートという格好だが、下にタイツをはいているので、残念ながらパンツは見えない。
脇におととい見たレモンイエローの自転車と黒の自転車が置いてあった。2台ともクロモリというスチールの細いパイプのフレームだが、フレームの形が違うので同じ自転車ではないらしい。黒の自転車のロゴを見て、Surly Cross×Check スルリークロスチェック? 幸太が声に出すと美戸がサーリーと言うのよ、と笑いながら教えてくれた。
美戸によると、この自転車は自分がお世話になっている自転車屋の店主の私物を特別にお願いして借りてきたもので、もし入部して自転車を買うことになったら、この店で買ってあげてほしい。美戸の言葉に、うなずく幸太だった。
「ところで今日は他の部員の人はいないんですか? 」
「先輩たちが卒業してしまって今は私一人なの。」
それって、まるでデートじゃないか。幸太は感動した。予想もしてなかった人生初のデートが今この時に、幸太は心臓がばくばくして今にも倒れそうだった。
変速の仕方を教わり、サドルの高さを合わせてもらって、幸太と美戸は出発した。高校の裏手にある黒目川に出て川沿いの遊歩道を下流に向かって走り始める。
子どもの頃、乗れないと不便だからと父に乗り方は教わったものの結局自転車に乗ることはなかった幸太だったが、10分も乗っていると体が思い出してスムーズに走れるようになった。楽しくなってきた幸太は必要もないのに、変速して遊んでいる。
幸太の乗っているサーリークロスチェックは乗り心地が良かった。ペダルを回す力がダイレクトに地面に伝わり、道路を滑るように走る。ブレーキも軽く握るだけで良く効き、変速はチャキッと軽い音を立ててスムーズに変わるのだった。幸太はこんなに乗りやすい自転車があるんだと思った。
美戸は時折、幸太の様子を振り返りながらゆっくりと走った。曲がり角では曲がる方向に腕を横に出して教えてくれる。
30分ほど走ると美戸が停まった。崖の斜面から水が湧き出して池となり、黒目川に流れ込んでいる。『
ここまで幸太は全く疲れていない。もしこの30分を歩いていたら、きっとへとへとになっていただろう。教科書の入った重いカバンを持ちながら駅まで歩くより自転車で通学した方が楽じゃないか? そんなことを考える幸太だった。
妙音沢から関越自動車道に沿った坂道を登る。けっこう急な坂道だ。美戸がぐいぐい登って行くのについて行こうとした時、急に幸太の目の前が暗くなった。幸太は苦しくなってペダルを回す脚が止まった。自転車から降りると自転車をガードレールに立てかけて、脇に座りこんだ。
どの位、意識が飛んでいたのだろうか? 額が冷たくて気持ちいい。幸太は目を開けた。美戸がミネラルウォーターで濡らしたハンカチを額に当ててくれている。美戸の顔が近い。幸太は顔が赤くなった。
「大丈夫? ごめんね、うっかりしてた。」
幸太は自分が情けなかった。今まで病弱でもそれなりに楽しく過ごしてきて、病弱なことをあまり気にしなかったが、それが初めて恥ずかしく思えた。少しすると頭がはっきりして足に力も戻った。幸太は立ち上がると、自転車を押して坂道を登り始めた。美戸は幸太の隣を自転車に乗りながら、ゆっくり登る。登りきったところで立ち止まった。少し心拍が上がっているが大丈夫だ。
「大丈夫です。」
美戸に告げると再び自転車にまたがって漕ぎ出した。次の目的地にはすぐ着いた。平林寺という禅宗の大きなお寺である。中に入るのか?と思ったが、美戸は寺の塀に沿って走り、お寺の裏に回ると小川があった。案内板には『
「疲れた?」
「はい。でも楽しいです。」
幸太は正直に答える。意外だったが本当に楽しい。コースを工夫して坂道を少なくするとか、ゆるやかな坂を通るようにすれば充分やれそうだ。でも、僕が入部したら田中先輩に迷惑をかけてしまうかも知れない。でも、それでも。
「僕、ポタリング部に入部します。」
幸太は意を決して言った。
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