第8話 Air

ある日の放課後、幸太は部室にやって来た。美戸はまだ来ていない。


手持ち無沙汰な幸太が自分のペップを見て、ふと思い出した。朝、登校する時にタイヤが柔らかく感じたのだ。そうだ、タイヤに空気を入れよう。幸太はフロアポンプ空気入れを手に取った。


部室に備え付けのフロアポンプはイタリアのSilcaシリカ  SUPERPISTAスーパーピスタというモノである。細身のスチールのボディに木のハンドルが付いた昔ながらのクラシックなポンプだ。単純な構造かつ補修部品が販売されているので、自分で修理し、ずっと使える。今の言葉でいうとサステナブルというのだろうか、ちょっと違うか。


幸太は美戸が空気を入れていた時を思い出して、見よう見まねで空気を入れようとした。プラスチックのキャップを外し、バルブにポンプの口金くちがねをあてがう。ところが、口金が入らない。悪戦苦闘しているうちに、美戸がやって来た。


「そのままじゃ使えないよ。」


でも、美戸先輩はこの前このポンプで空気を入れていたはず。幸太は不思議そうな顔で美戸を見た。


「バルブが違うのよ。私のはプレスタ、佐藤君のはシュレーダー。」


プレスタ? シュレーダー? 美戸はポンプの口金をばらすと中のユニットといわれる部品を抜いて別のものに取り替えた。


ちなみにこの口金はSilcaの純正ではなく、日本のヒラメというメーカーのモノである。Silca の純正の口金はバルブに固定できるストッパーがついておらず、空気を入れていると空気の圧力で抜けてしまうことが多いのだが、ヒラメの口金ならそんなことはない。このSilca のポンプとヒラメの口金という組み合わせはひと昔前までの定番だった。


「はい。」美戸が幸太にポンプを手渡した。


幸太はポンプの口金を後ろのタイヤのチューブのバルブに当てた。今度はすんなり入った。ストッパーのレバーを閉じると力を込めてポンプのハンドルを押し下げる。シュッという音がしてタイヤに空気が入った。ポンプのメーターを見るとやはり少し空気圧が下がっている。


「ペップのタイヤは太いから、とりあえず4bar くらいまで入れてみて。前はそれよりちょっと低い方がいいよ。それで自分の好みの空気圧を見つけるといいね。」


幸太は一生懸命ハンドルを押した。案外力がいる。15回位押すと4barをちょっと超えた。前のタイヤはそれよりちょっと少なくて済んだ。前後のタイヤに空気を入れ終わると、幸太は息が切れて椅子に座り込んでしまった。


「自転車に乗るのに、タイヤの空気は大事だよ〜。一番大事。シティサイクルだと半年とか一年に一回位しか空気入れない人もいるけど、レースやってる人は自分が納得いくまで何回も調整する人がいっぱいいるよ。空気圧が低過ぎるとぎが重くなるし、パンクしやすくなるから、週に一度位確認した方がいいね。」


美戸は幸太に紅茶を入れてくれた。


自転車のチューブのバルブは、大体3種類ある。


◎英式 ウッズバルブ、ダンロップとも言う。ダンロップとは有名なタイヤメーカーのダンロップのこと。虫ゴムという部品を使った単純な構造で、シティサイクルは大体これ。


◎仏式 フレンチバルブ、プレスタとも言う。ネジ式のバルブで空気を高圧にできるため、ロードバイクというかスポーツサイクルは大体これである。


◎米式 シュレーダーとも言う。自動車と同じバルブでアメリカが発祥のマウンテンバイクに使われることが多い。


ペップはマウンテンバイクよりのスポーツサイクルなので、ノーマルは米式のチューブを採用している。美戸はタイヤ交換を機にチューブを仏式に交換していた。仏式の方がチューブの選択肢が多い。


「スポーツサイクルに乗るなら、タイヤの空気とパンク修理、チェーンの油とブレーキの調整はできた方がいいね。難しくないよ。少しずつ教えてあげる。」


美戸はにっこり笑った。


僕は何も知らないし、できないんだな。幸太は心の中で呟いた。でも、美戸は教えてくれると言っている。僕は美戸先輩に一生ついて行けば間違いない。前向きというか明るいというか、能天気な幸太なのでありました。

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