第6話 Saddle
今日はペップでの初登校。幸太はカーポートの車の後ろにとめてあるペップのカバーを外し、フレームとカーポートの柱を繋いでいるチェーンロックを外した。カバンはホームセンターで買ったワンタッチバックルの付いたベルトでリアラックに吊るした。
家から漕ぎ出し、3分程で黒目川に出ると後は川沿いの遊歩道を上流に向かって、自分の体調を意識しながらゆっくり走る。歩いている人も多いし、時間に余裕はあるからあえてスピードを出す必要もない。家から20分位で高校に着いた。家から駅まで重いカバンを持って10分歩いて、バスの中で10分立っているより全然楽だ。幸太は満足気な笑みを浮かべた。
まだ時間に余裕がある。幸太は駐輪場にペップを駐めると部室に向かった。美戸は予習のために朝は早目に来ていることが多いと聞いていた。
ドアに近づくと曇りガラスの窓から灯りがついているのがわかる。
「おはようございます。」幸太はドアをノックして少し間を空けてからドアを開けた。
「おはよう。」美戸がにっこり笑う。朝から幸せな幸太だった。
「ペップは?」幸太が駐輪場に置いてあると答えると美戸は放課後にメンテナンスとか教えてあげるから部室に置くといいと言われて、慌てて自転車を取りに戻る幸太だった。
授業中、いつもは授業をぼんやりとやり過ごしている幸太だったが、今日は椅子に座っているお尻が痛い。
昨日のポタリングは楽しかったが、最後の方はかなり股間とお尻が痛かった。ペップのサドルはロードバイクに使われるような薄くて細いモノが付いている。クッションがあまりないし、細いから股間とお尻が圧迫されて痛いのだ。
鈴木サイクルの店長に相談するか? でも、店長は分からないことは美戸先輩に聞けと言っていたよな。ちょっと恥ずかしい気もするが背に腹は変えられない。幸太は都合の良いように自分を納得させた。放課後になって部室に行くと、美戸に相談する。
「私もサドルが合わなくて、すぐに交換したよ。今のは3個目かな。自分に合うサドルとハンドル選びはほんと難しいよ。」
幸太は美戸のペップのサドルを見た。ちょっとずんぐりとしているがクッションが効いて座りやすそうだ。美戸のサドルは4000円位したとのこと。それでもスポーツサイクルのサドルとしては安い方なのだそうだ。幸太は困った。ペップを買うのにほとんど貯金を使ってしまって、もうお金がない。月の小遣いがもらえるのはまだ先だし、4000円のサドルを買ったら、それでほとんど小遣いがなくなってしまう。でも、この痛みはこれ以上我慢できそうにない。
「中古だけど、サドルならいくつかあるよ。」
美戸は戸棚から何個かサドルを取り出すとテーブルの上に置いた。どれも卒業した先輩たちが残していったものらしい。形も様々で、シティサイクルから外したようなバネ付きサドルだったり、幸太のペップとほぼ同じ形のスポーツサイクル用サドルだったりする中で、一つだけ全く違うサドルがあった。
幸太はそのサドルを手に取って見た。茶色の分厚い一枚革を鉄の台座にリベットで留めた、ずしりと重い無骨なサドルである。だいぶ古いものらしく日焼けして、表面は少しざらざらしていた。
「これは、
革サドルは戦前から1960年代位まではスポーツサイクルに一般的に使われていた。固いので馴染むのに時間がかかるし、革だから雨に濡れるとダメになってしまう。そして、たまに油を塗ったり革の張り具合を調整しなければいけない。何より重いし高価なのでプラスチックサドルが登場すると、すっかり廃れはしたもののお尻に馴染むと独特の座り良さがあるのと、クラシックな雰囲気で今でも一部では根強い人気がある。BROOKSは1882年創業のイギリスの革サドルのメーカーで、現代でもほぼ当時と同じようなサドルを製造しているのであった。
このBROOKSは美戸がポタリング部に入部するずっと前からあって皆一度は使ってみるのだが、なかなか合う人が見つからず未だに置きっぱなしになっているという。
美戸は戸棚から保革油の小さな缶を取り出すと、指でバターのような油をすくってBROOKSの表面に染み込ませるように塗った。白くて細い美戸の指が優しくBROOKSの表面を撫でるような、その手つきが何だか妙に色っぽくて、幸太はどきどきする。全体に塗ったあと布で磨くとすべすべになり落ち着いたツヤが出た。
「試してみる? もし気に入ったら、佐藤君が使うといいよ。」
美戸は幸太のペップからサドルを外して付け替えてくれた。高校からの帰り道、BROOKSはクッションはないものの革が微妙に変形して衝撃を和らげてくれるのと幅が広いので、幸太のお尻は大分楽になった。
全くの偶然であろうが、このBROOKSは革がちょうど馴染み始めるタイミングだったらしい。幸太が使い出してから、しばらくするとBROOKSは幸太のお尻に馴染んだ。だが、単純な幸太は美戸やペップが自分の運命の相手だと思っているのと同じように、このBROOKSは自分の運命のサドルだと思ってしまった。その後、幸太のペップにはずっとこのBROOKSが鎮座することになるのである。
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