第17話 Summer vacation
朝の7時。
「じゃあねー。
「じゃあね、リンちゃん。ちゃんと宿題もやるのよ。」
レモンイエローのペップと黒のスチームローラーは別れた。
美戸は汗まみれで家に帰って来た。シャワーを浴びて、タンクトップとホットパンツに着替えると朝食を済ませた。
夏休みに入った。
日中、自転車に乗るのはきついので、美戸は早朝の内に一人で乗ったり、リンと走ったりしている。幸太も誘ったが、病弱な幸太は早起きと夜ふかしが大の苦手ということで断られた。美戸の言うことには常に絶対服従の幸太にしては珍しいことである。代わりに、土曜日の夜のポタリングと日曜日に勉強を教える約束をしていた。
退屈だな。美戸は呟いた。宿題はさっさと片付けてしまったし、二学期の予習も順調に進んでいる。美戸の趣味と言えば、自転車と読書くらいでテレビもあまり見ないし、とにかくやることがない。何より自分といると嬉しくて仕方ないという様子の幸太に会えないのがつまらないのである。
そんな幸太はペップがらみで欲しいものがあるということで夏休みは祖父が営んでいる喫茶店でアルバイトをしている。
美戸は何となく幸太の祖父の店『喫茶ナタリー』をネットで検索してみた。黒目川沿いにあるらしい。ああ、あの建物か。すぐに分かった。雰囲気のある建物だが、喫茶店とは知らなかったな。美戸は呟いた。お店のレビューによると、この辺りでは老舗でコーヒーは美味しいがメニューの種類は少なく、値段も高いという程でもないが安くもないという。これと言って、可もなく不可もない感じである。
幸太の家族に会うのはちょっと恥ずかしいが、一度行ってみるか? 暇を持て余した美戸は着替えると、ペップに乗った。
新小金井街道から黒目川に出て、遊歩道をのんびり走る。西武池袋線の線路をくぐって、しばらく行くと目的の洋館に着いて、美戸はペップを停めた。入り口の脇の自転車置き場に幸太のペップが停めてある。美戸は軽く深呼吸をするとドアを開ける。ドアに取り付けられたベルがカランコロンと長閑な音を立てた。
「いらっしゃいませ。」
白髪のマスターが少し意外な顔をした。この人が佐藤くんのおじいさんかな? 美戸は思った。雰囲気が少し似ている。
店の中を見渡したが、幸太はいない。休憩か、それともお使いに行っているのだろう。マスターが意外な顔をした理由はすぐわかった。他の席の客は皆、お年寄りか近所の主婦らしき人たちで、大声を出すでもなく、静かにコーヒーと会話を楽しんでいる。
「お一人ですか? でしたらカウンターにどうぞ。」
いまさら帰る訳にも行かない。ペップが置いてあるのだから、そのうち戻って来るだろう。美戸はカウンターの椅子に座った。
「モーニングセットが終わってしまいまして、飲み物の単品かケーキセットになりますがよろしいですか。」
「ケーキは何がありますか?」
「今日は自家製のレアチーズケーキです。冷やしてあるので、さっぱり食べられますよ。」
「では、それとカフェオレをお願いできますか?」
「かしこまりました。」
美戸は店の中を眺めた。そんなに広くはなく、カウンターとテーブルが4つ程の小さな店だが、テーブルは全部塞がっていて、けっこう繁盛しているようだ。店の調度やカウンター、テーブルも年季が入っていて、レトロな雰囲気である。
「お待たせしました。」
美戸の前に、カフェオレとレアチーズケーキが置かれた。美戸はカフェオレを一口飲むと、ケーキを小さく切って口に入れた。
「美味しい。」つい口に出た。マスターが微笑む。
ふだん家でコーヒーを飲む習慣がなく、たまに外出先で飲むことがあるだけの美戸だが、今まで飲んだ、どのコーヒーよりも美味しい。レアチーズケーキはいかにも自家製といった感じの少し野暮ったい味だが、これはこれで美味しい。
すっかり食べ終わった後、持ってきた文庫本を読んだりスマホを眺めたりしていたが、幸太は戻って来ない。あまり長居するのも悪いと思ったので今日のところは帰ることにした。
「ご馳走さまでした。また来ます。」
「ありがとうございました。」
美戸は店を後にした。その晩。幸太からメールがきた。
「田中先輩、今日お店に来ましたか?」
マスターである幸太の祖父には、やっぱりバレてたね。美戸は苦笑した。
「うん。しばらく待ってたけど戻って来ないから帰った。」
「すみません。ちょっと具合が悪くて2階の事務室で休んでたんです。」
「また来てください。今日のお詫びに奢ります。」
「そうするね。」
美戸は夏休みの間、週に2回位『喫茶ナタリー』に行くようになった。コーヒーやケーキを食べて幸太の手が空いていれば、少し話をして帰る。幸太の祖父は、そんな2人を微笑ましく見ている。
この夏休みは、幸太にとって人生の転機となる大事な夏休みとなった。そのことを今の幸太はまだ知らない。
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