第19話 Mother

「は? 幸太のガールフレンド? 何それ?」さちの目がつり上がった。


しまった。幸太から聞いてないのか? 幸太の祖母は青ざめた。良く考えれば年頃の男の子が母親にガールフレンドの話などする訳がない。夫から幸太のガールフレンドが店に来て仲良く話しているというのを聞いて、幸太も成長してるのね、と微笑ましい話題のつもりだったのだが、どうやら地雷を踏んでしまったようだった。


娘、つまり幸太の母のさちは幸太と同じく病弱であって、ふだんは大人しく優しい娘である。だが、溺愛している息子の幸太のこととなると人が変わる。


幸太が小学生の頃、いじめにあいそうになったことがある。幸太の同級生の母親からそれを聞いた祥は小学校に怒鳴り込んだ。さんざん大騒ぎした挙句、具合が悪くなって倒れてしまい、学校から救急車で運ばれるはめになった。それで幸太の母親は美人だが危ない人だと学校中の評判になって、面倒くさいことになるのを嫌がった子たちは幸太をいじめるのをやめた。そのおかげで幸太は学校生活を平和に送れたのである。


知っている情報を全て吐かされた祖母はふらふらになって家路に着いた。祖母は幸太の淡い初恋がぶち壊しにならないよう祈るのだった。


祖母が帰った後も祥は落ち着かなかった。祥と幸太の結び付きは強い。病弱故に色々な事が思うに任せない苛立ちや諦めを分かってくれるのは、お互いに幸太しかいないし自分しかいないのだ。


祖父の話によると、先輩と呼んでいるので上級生で、幸太と同じ自転車に乗っているところから、ただの先輩後輩ではないらしい。美人という程ではないが、明るくてちゃんと挨拶のできるきちんとした娘らしい。


男女共学の高校の部活動である。当然、女子の部員もいるだろう。その中の一人と仲良くなるのは考えられないことではない。


ポタリング部の部員は美戸と幸太の二人だけで、毎週デートよろしく二人でポタリングに行っていることを知ったら、祥は発狂してしまうかも知れなかった。


最も今にしてみれば、思い当たる節がある。朝、幸太に微熱があるので高校を休ませようとすると、我慢できなくなったら早退するからと言って、自転車で登校してしまう。そして早退してきたことはない。保健室の先生からは、たまに体調が悪いと言ってやって来るものの、思っていた程ではないし、進級や卒業に影響が出る程でもないと連絡が来ている。


そんなに高校が楽しいのか、と夫と喜んでいたのだが、どうやら目的はその女の子にあったようだ。


最近の幸太は少し顔色が良くなって、骨と皮ばかりだった体にもうっすらと肉がついて、少年らしさを感じられるようになった。自転車がそんなに体に良いなら私も乗ってみようかしら?と考えていたところだったのである。


さて、そうなると、一体どんななのであろう。気になって仕方がない。きっと幸太をからかって楽しんでいるような娘に違いない。幸太が振られて悲しい思いをする前に潰しておく必要がある。祥は思った。


その娘は大体週2回、決まった曜日の決まった時間に来るらしい。その日になって、祥はタクシーで『喫茶ナタリー』に乗りつけると、勢いよくドアを開けた、つもりだったが力がないのでドアはきしんだ音を立てて、ゆっくり開いた。


ドアに付いているベルが教会の葬儀の鐘のような不吉な音を立てた。やっぱり来たな。祖父の不安は的中した。妻の話を聞いて近いうち来るだろうな、と思っていたのである。美戸のおかげでせっかく幸太がコーヒーに興味を持ってくれたのだ。幸太の彼女は自分が守らねば。祖父は身構えた。


「珍しいな。どうした?」

「久しぶりに父さんのコーヒーが飲みたくなったの。持って帰るからボトルに入れてくれる?」


「あ、お母さん、いらっしゃい。」幸太がのんきに声をかけた。その瞬間、美戸は弾かれたように立ち上がった。


「初めまして。佐藤君と同じポタリング部の田中美戸です。よろしくお願いします。」

「まあ。丁寧にありがとう。幸太がお世話になってます。」


二人の間で火花が散ったのが、祖父には見えた(ような気がした)。別に美戸が火花を散らす必要はないのだが、美戸は意外と負けず嫌いで喧嘩上等な人間なので、つい反応してしまったのだった。


一触即発。女のバトルが始まろうとした瞬間、


「お母さん、これ僕が淹れたアイスコーヒー。飲んでって。」

「まあ♡」


家事の手伝いなど全くできない(しない)幸太が私のためにコーヒーを淹れてくれるなんて。祥は感激した。祥はついさっきまで美戸が座っていた幸太の正面の椅子に座るとグラスのストローに口を付けた。アイスコーヒーの爽やかな苦味。ガムシロップの甘味。実家が喫茶店の娘に生まれながらコーヒーを美味しいと思ったことのない祥だったが、幸太が淹れてくれたというだけで天上の美味のように感じられて、もはや美戸のことはどうでも良くなってしまった。


もちろん、そのアイスコーヒーは幸太が美戸のために淹れたものの余りである。何も知らずに、幸せな祥なのでありました。

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